■読者のページ〜2000年8月〜

『白い刻印』『ジョン・ジョン・イン・ザ・スカイ』『サイダーハウス・ルール』

ここのところ、立て続けに観た映画は『白い刻印』『ジョン・ジョン・イン・ザ・スカイ』『サイダーハウス・ルール』などだが、図らずもみんな父子の関係を扱った映画だった。そして、どれも子が父に近づいていく映画だった。

父と子をテーマにした映画は、今までも周期的に作られてきたが、社会状況とも関連している。少年事件が起こるたびに、家庭の中での父親の不在が云々されているが、父親の不在を扱った映画はまだ少ない。

これらの映画と平行して読んだのが、『朗読者』という小説で、主人公の少年と車掌の女性との恋愛を描いていくのであるが、(未読の人には申し訳ないが少し内容に触れる。)その中で、子どもとスタンスを取り続ける哲学者の父と主人公との対話が気になった。

文盲であることを隠し通すため、罪を着せられてもそれを受け入れてしまう女性に、主人公は裁判官に彼女が文盲であることを告げるべきかどうかを、哲学者である父親に相談するのだ。

そこで父親と主人公は

『君は幼い頃、君にとって何がいいことかママの方がよく知っていたりすると、憤慨する子どもだったことはもう覚えていないかな?子どもに対してどこまでお節介が許されるかということが既に、重要な問題なんだ。それは哲学的な問題だけれど、哲学は子どものことを気にしていない。哲学は子どもを教育学に任せっぱなしにし、虐待されるままにしている。哲学は子どものことを忘れちゃったんだな。』父はぼくにほほえみかけた。

『ときどき忘れる、というのではなくて永遠に忘れてしまったんだよ。私が君たちのことを忘れているように。』

『でも……。』

『でも私は大人たちに対しても、他人が良いと思うことを自分自身が良いと思うことより上位 に置くべき理由はまったく認めないね。』

『もし他人の忠告のおかげで将来幸福になるとしても?』 父は首を左右に振った。

『私たちは幸福について話しているんじゃなくて、自由と尊厳の話をしているんだよ。幼い時でさえ、君はその違いを知っていたんだ。ママがいつも正しいからといって、それが君の慰めになったわけじゃないんだよ。』(〜「朗読者」ベルンハルト・シュ 松永美穂訳 新潮社〜)

という、対話をする。今の自分たちが、哲学する事をいかに忘れているのかを考えさせられる。

私の好きな絵本作家に樋口通子さんがいるが、彼女の言葉の中に“子ども自身に生きさせよ”というものがある。

“子どものため”という親の都合で、子どもたちの内的な成長と無関係に殻を着せ、いい気になっている親がどんなに多いことか。

失敗を許されない子どもの内的な成長を考えると、先へと急がされ、置き去りにされた感情や空洞になっていく内面が見えてくる。

親の先回りが、生きる喜びを奪っていくことにもっと早く気づくべきなのだ。

(大森秀一)