■えるふ流読書法〜2003年9月〜
新刊の紹介の中であえてふれなかった本が一冊ある。
子ども対象の本ではないという のが 理由のひとつで、もうひとつの理由はこの夏休みに丁寧に読み直してみたいと思ったからである。長谷川摂子著『人形の旅立ち』福音館書店刊。
この本の内容の一部は、以前だされていたが今はもう出版されていない『子どもの館』で読んでいたので、いつ一冊の本になるか気にかかっていた。あぁやっと……という思いが強かった。うれしかった。私は長谷川摂子の評論『子どもたちと絵本』を、どこかに絵本について話に行く時は良く取り上げて推薦する。本を選書したり薦めたりすることはその人の考え方や生き方と大きく係わっている。私はこの本にあげられている絵本のかずかず、そして子どもに対しての見方、とても共感することが多い。
そして、子どもたちにとっては大好きな絵本『めっきらもっきらどおんどん』『おっきょちゃんとかっぱ』『きょだいなきょだいな』(すべて福音館書店刊、画家はふりやなな)の著者でもある。
これらの本を始めて読んだ時“めっきらもっきらどおんどん”とか“あったとさあったとさ”と唱えながら私自身幼い子どもになって日本語のリズムのおもしろさに充分ひたっていた。私にもそんな子ども時代があった。なんの不思議もなく河童やモモンガと遊んだ時代、遊びほうけて時間を忘れ叱られてしばらく家の前に立たされた頃があった。そのまま帰ってこない子どももあった。弟も川でおぼれかけたことがあり母が真っ青な顔をしていたのを覚えている。
『人形の旅立ち』には幼い頃の著者とおぼしき女の子が主人公になった5つの短編が含まれている。少女がかいま見た世界は現実の世界と繋がっているのにこの世ではない世界、夢の世界というより、現実の世界と背中合わせで存在しているもう一つの世界を描きだしている。子どもはそのふたつをらくらくと行ったり来たりすることができる。私にもそんな時代があった。
長谷川摂子をそだてた山陰の小さな町は私が育った新潟の小さな城下町そのままだ。実際は私は著者よりもう少し後の年代だし、新潟といっても単なる地方都市生活者の家で、おまけに祖父も父も一人っ子、祖母の生家は没落した小さな地主で農家の親類は一軒もなく、したがって古い村落共同体もなく、いまの核家族のはしりみたいな家だったからずいぶんと違っている。
けれども小川未明の『人魚と赤いろうそく』の舞台になった暗い日本海はすぐそこにあり、とんぼ取りにかよった堀は春は桜が爛漫と咲き、夏は水面をうめつくすほど蓮の花が咲き、窓を開けば山が四季折々の表情をみせ、12月はくる日もくる日も雪が降り、妖怪と出会えるような神社も河童と出会えるような堀や川もあり、かんたやおっきょちゃんのように妖怪や河童と遊ぶことのできる子ども時代があった。
けれど、成長するにしたがってそんな暗い発展性のないような世界が嫌いでひたすら脱出することばかり考えていた。日本語を使い日本語でものを感じ、考えている自分から逃れようがないことを知ったのはずっとおとなになってからのことだ。
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そして、そのことを強く意識するようになったらなぜかそれまでのように自由に現実の世界とむこうの世界を行き来することができなくなった。道を忘れてしまったのである。いまの子どもたちのまわりには河童のすむ川や沼もなければ妖怪たちと会えるような場所や空間がない。それなのにかんたやおっきょちゃんになることができる。
そんな子どもと本を読んでいると忘れた道をすこしづつ思い出してくる。『人形の旅立ち』のページをめくりながら長谷川摂子の言葉に導かれ、この夏私は子どもの世界に帰ってきた。
『人形の旅立ち』長谷川摂子著/福音館書店刊
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