■えるふ流読書法〜2002年3月〜
リンドグレーンは94歳だから訃報を聞いてもまあ、しかたがない来るべきものが来たとは思ったが、続けていぬいとみこさんや上野暸さんの訃報が新聞に載っていたのを見つけた時は、あぁ!と思いながら一時代が終ったとつくづく思った。
いぬいとみこの『ながいながいペンギンのはなし』や『木かげの家の小人たち』を読む子どもは少なくなった。まして上野暸の名前をどれほどの子どもが知っているだろうか。
いぬいとみこの作品を読書会等で取り上げると、私は決まって本の中のこびと達が毎日与えられたミルク、そのコップの色はなぜ空色だったのかという質問を参加の人に考えてもらうことにしている。なぜ空色と書かれているのだろうか、どうして空色のコップでなければならなかったのか、この事を考えてみると日本の戦後の児童文学者が掲げた志を思わないわけにはいかない。私はその日本の願いを一身に受けて育った子どもの一人だ。
幼い頃を過ごしたのは地方の城下町だったが図書室は小・中学校とも、ともすると今の学校よりもっと充実していた。鍵がかかっている等ということもなく、どういう立場だったか解らないがそこには司書のような人がいた。教師も良く本の話をした。お昼の放送の時間には5・6年生の放送部員が放送を通じて朗読などをしたり、夏休みには学校図書館の移動車があり神社などで本の貸し出しをしたり、母は手伝いをしていた。
各々家庭は貧しく本もなく、だからこそかもしれないが教師は熱心だった。テレビがないから体を動かして遊ぶか、ラジオを聴くか、本を読むしかなかったが、こんなに姦しく子どもに読書!読書!と言わなかったし、「読み聞かせ」等と親まで動員されるようなこともなかった。読書はあくまで個の営みだった。
家庭で読み聞かせをしてもらった子どもは皆無だったが、教師は良くバカ話をしたし、子どもと良く遊んだ。親は子どもが教科書を声に出して読むのは良く聴いていた。少々インチキくさいが昔話などを話してくれる年寄りが身近にいた。
岩波書店の編集者だったいぬいとみこは欧米の児童文学のもっている未来への肯定性を日本の児童文学の中に取り入れていこうとしたが、それは必ずしも成功したとはいえない。それは上野暸の作品にもいえる。関西人としての資質、『ちょんまげ手まり歌』や後年の『日本宝島』に見られるものの見方は、自ら称している様にプ−横町のイーヨーの役割としてもそれは暗い。どんどん未来が遠くなり、見えなくなってしまったいま、いぬいとみこや上野暸が残していったものは何なのだろうかとしきりに思われてならない。
先日ある出版社のYさんが亡くなって、彼女の仕事の一つが『子どもの館』だったことを知った。『子どもの館』『月刊絵本』と専門誌がだされ、読者を巻き込んで子どもの本の世界は活発でおもしろかった。1973年の創刊だった。
先日ニュースステーションでは浅間山荘事件のことや東大闘争のことを放映していた。30年の月日が流れたことが改めて思われた。(文中敬称略)
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