■えるふ流読書法〜2002年1月〜
関東に出てきて困ったことがある。困ったというより体が時々反応してひどく苦しい時がある。それは冬から春の乾燥した風と、山が見えなくて恋しいと思うことだ。
東京で暮しはじめて2年目の冬、風邪が元で時々ひどく咳き込むようになり、喘息の発作をおこすようになった。昔、軽い結核にかかって静養したことがあり、気管支や肺が弱い。おまけに最近では風邪を引くとすぐ声が出なくなる。
この冬も“ああ、うるさいから少し黙っていなさい”ということなのかなと思ってはみるが、なにせ人と話すのが仕事の一つなのだから不自由きわまりない。特に電話が困る。夕方になってくると声が疲れて?ひどく調子が悪くなる。朝起きて、外を見ても山が見えない。山の見える所で育った私は山々が私の心を落着かせてくれる。ただ眺めているだけで良いのだ。乾燥した風と風景、続くと体がひび割れてカサカサしてくる。
友人は私のことをとても新潟で育った人とは思えないというが、人の関係に疲れてくると雪が恋しくなったり、山々の姿を思い浮かべる私の中にはまぎれもなく日本の雪国で育った根っこが流れていると自覚する時である。
元気な赤羽末吉さんが会留府に来てくださったのは1980年国際アンデルセン賞画家賞を受賞した前年、絵本『つるにょうぼう』が出版されてすぐの頃だった。その頃、福音館書店のM氏が中に入って(昔の福音館はよくその様な労をとってくれた)お話を聞けることになった。『つるにょうぼう』の作品をスライドにして、描くことから紙の話、どういうキッカケで絵本の世界に入ったという様なことを話していただいた。
すでに『かさじぞう』や『スーホの白い馬』で子ども達におなじみの赤羽さんだったが、この講演会はこれまでの何回かを企画した中で一番楽しかった。
赤羽さんは1910年生まれ、私の父より少し年上だが、同世代の人である。東京の神田生まれ江戸っ子らしいきびきびした明るいユーモアのある話をされた一方、講演会に来た人達を十分に楽しませ、加えて主催者のわたしに店の状況を聞いて下さるようなサービス精神のあるか方で“サインをすることで本が売れるならたくさんしますよ”等と声をかけていただいた。
終った後、一緒に食事をしたのだが驚く程の読書家で、勉強家で映画や芝居に通じていて、絵本は舞台芸術や映画に似ていることなど、私はただ、ただ口をあんぐり開けたまま話を聞いていて時間が経つのをすっかり忘れてしまった。
日本の自然の美しさについても話された。日本の山、日本の国はは緑があふれていて、しかも乾いた森や林でなく川が多く、水が溢れているから湿気があって美しい、中国の広大な乾燥した大地から見ても、ヨーロッパのやはり乾燥した黒い森から見てもほんとうに美しい。そんな美しさを子ども達に伝えたい。それは中国から命からがら引揚げてき来て、子どもを亡くされた過酷な体験から思われた事だったかもしれない。
絵本を見るような家庭で育ったわけでもなく、正式な美術教育を受けて画家になったわけでもなく、ただ絵を描くのが好きだけれど、大連で偶然『コドモノクニ』を見たのがとても心に残ったこと、また、中国の古老達の“影絵人形芝居”にのめり込んだこと、日本に来てから雪国への何度かのスケッチ旅行、そして福音館の『こどものとも』の茂田井武の絵に感動して自分から福音館にでかけ、松居直さんとの出会い、それらが赤羽さんの作品の始まりだった。『絵本よもやま話』(偕成社刊、現在は残念ながら手にはいりません。)でこんなことが書かれている。
「乾燥した大陸から日本に帰ってきて、日本の美しさは、湿気の美しさ陰りの美しさと判断し、その日本のシメリをあの『かさじぞう』で表現しようとした。そこで必然的に墨絵ということになったが、墨絵の子どもの絵本というのはどうなるか不安でもあった」〜『かさじぞう』とその周辺より〜
「ゆとりのないところには、文化は生まれない。その中でゆとりをもったことは、たいしたことだと思う。こうしたことが、その後帰国した私の心に強く残り、それやこれやが重なって子どもの道に入ったのではないかと思うのである。〜毛沢東の肖像より〜
「子どものものでは子どもの生活の周辺をかくことは大いにあっていいことだが、その心まで矮小化することはない。短い話でも、小さな形の絵本でもその底に流れるものは、大きな広がりのあるものであってほしい。たった四畳半の茶室にその心の宇宙の広がりを持たせたのは我々の祖先である。」〜万能薬えほんより〜
赤羽末吉さんは入谷の感応寺に葬られているとのこと、今年は一度行ってみようと思っている。
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