| ■えるふ流読書法〜2001年10月〜 詩を読むことについては以前にも書いたようにあまり良い出発ではありませんでした。それは小学校時代の教科書!!の宮澤賢治の“雨ニモマケズ”でした。なんと押し付けがましく暗い詩だろうと、正直なところ思った記憶があります。作文もあまり好きではありませんでした。生活作文をありのままに書かせることが教育の中で盛んに行われていました。 言葉は書き言葉だったのです。中学生の頃健康を損ね、内へ内へと意識が進み、日記を書き毎日夢想する時間を過ごすようになりました。自由のきかない日常から羽ばたける日々ばかりを思っていて、観念と言葉の堂々巡りの中で生きていたように思います。 体力がないその頃、いま思うとどうしてあんな長編ばかり読むことができたのか不思議でならないのですが(外国の長編小説、とくにロシア文学を良く読んでいたのですが)、一方ではその頃から少しづつ詩を読み始めました。 思春期にありがちな感傷的な詩から、生活を謳いあげたリアリズム文学の様な詩までかなり幅広く読んでいきました。現代詩といわれる詩も読んではみましたが、言葉のおもしろさとリズムに惹かれるところはあっても、どうしても私のリズムと波長がなかなかあわない部分も多く、頭の中で言葉をいじりまわして疲れてしまうようなところがあります。 詩は言葉のもっている細やかな感性をよりどころにして自分を表現することが出来ます。詩を書くわけでなく読むだけでも、それは自分を表現することになります。それは子どもが絵本を見るのとどこか共通のものがあります。だからゆっくりと、できれば声にだして読む、つまり音とかリズムが必要です。絵本の絵もみていると音が聴こえてきます。 例えば、私の好きな一冊であるエッツの『もりのなか』では、男の子と動物達が行進していく足音が聴こえます。男の子が吹くラッパの音が聴こえます。 茨木のり子の詩に出会ったのはかなり後のことでした。(偶然にも違ったところから金子光晴の詩にも出会っていました。)最初に読んだのは詩集『見えない配達夫」(飯塚書店刊)キッカケはその頃読んでいた詩誌「ユリイカ」でした。真直ぐで静謐な言葉にひかれて読み始めたのですが、2度話を聞いた時も想像どおりの人でした。「美しい言葉とは」(「言の葉さやげ」茨木のり子 花神社)にこんなことを書いています。「美しい言葉とは」第一にその人なりの発見を持った言葉、第二正確な言葉、第三は体験の組織化、これは人間の言葉を、言葉たらしめる一番大切な要素に思われる。」そして、「あゝ、久しぶりに人間の言葉を聴いたという一種のよろこびをよびさましてくれるものを私は美しい言葉だとおもっている」と書きしるしています。美しい言葉が欲しいと、この頃強く思います。
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