■えるふ流読書法〜2001年7月〜


『おーい ぽぽんた』が順調に売れている。

絵本やお話の本ではないので何冊も平積みに置いてはないけれど、仕入れるたびに売れていく。この本は万葉集から俳句、近代現代詩まで含めたアンソロジーで、あまり類書がないからかもしれない。本の帯に“小学生に暗唱してほしい”と書かれている。小学生か……私自身の小学生の頃をふりかえると、詩に触れることはほとんどなかったように思う。生活綴り方が全盛期だったので作文はよく書かせられた。

今は、一年生から六年生まで、各学年ごとに詩がなん編か載っているが、学校嫌いだった私には国語の教科書がどんなだったか記憶もあまりない。国語の授業が面白かったと思ったことが一度もなかった。宮沢賢治の“雨ニモマケズ〜”を読んだ、読まされた?時も、説教くさくて悟ったような、何てつまらない詩だろうとしか思わなかった。

一方で、岩波少年文庫の『ドリトル 先生航海記』や『エーミルと探偵たち』を父の本箱から見つけて読んで(父は私に読ませようとして買ったわけではなかった)、何て面白いのだろうと思い、その頃から読書は私の生活の中にしっかり根を張ったように思う。一体何が面白かったのだろう。それは今でもそうだが、現実に自分自身が生きている毎日と違った世界を本は与えてくれる、主人公になることによって私は笑い、泣き、悔しがり、優しくなり、元気を出したのだと思う。

詩を読むようになったのは何がキッカケだったかわからないが、たぶん本を読んでただ楽しんでいたのが、中学生頃になって読むだけでなく自分の気持ちを表現したいと思った時、私の体のリズムに一番あったのが詩という形式だった、それは思春期という特有の年令のさせたことで、詩に限らず本を読むことで今と明日を手探りしていたのだと思う。

すでに一部の詩人達は詩を文字にして発表するだけでなく、その文字をもう一度言葉を発するという行為を通して、体と言葉を結び付ける試みを盛んにしていた。音楽や身体表現で体と言葉を結び付けることは行われていたが、日本の文学の世界では自閉的であれこそ、言葉を発することで体を解放しようということはほとんどなきに等しかった。

けれど、時代は科学万能の合理主義世界の行き詰まりを感じ、もう一度自分の体を通していくという行為の中で言葉は問い直され始めていた。

学校での国語教育のつまらなさを私は思う。閉鎖された特殊な学校という場で、言葉はどんどん子ども達から遠くなっている。課題図書においての作文教育であり、朝の10分間読書であり、詩も読書もそこでは解釈であり、記憶することであり、道徳でしかない。

谷川俊太郎の『みみをすます』や工藤直子の『のはらうた』が出た時、子ども達は大歓迎をした。分かりやすい、読みやすい、リズムがある、ちょっとはにかんだような嬉しい表情で詩を読む時の子ども達の声がとても楽しい。言葉は自己の内面を切り開いていくもの、この騒々しいとしか言いようのない世の中で子ども達だけでなく、大人こそ口ずさんでほしいと思う。