■えるふ流読書法〜2001年4月〜


仕事がら、子どもたちが言葉を覚えていくことに興味があった。どうやって本を読むようになるのか興味がある。絵を見て頭の中にイメージをわかせていく。見るという具体的な行為を通して理解していくことは分かる。

でも、イメージを持つということ、それだけでは豊かにならないことを知ったのは、内省的にひたすら自分の殻に閉じこもって本を読むようになっての頃だったように思う。

そのキッカケは小学生の頃、選ばれて歌のコンクールに出場しなければならなくなり、舞台に立ったとたんにどうしてか声が出なくなってしまったことによる。頭の中が真っ白どころか、会場の学校の講堂から外まで、いっさいの音が消えてしまった。その時から人の声を聞くことや、話をするたびにあの恐怖を味わいたくないばかりにやたらおしゃべりをするようになってしまった。そんな時はまわりの音が何も聞こえなくなる。

一方、一人で好きな本を読んでいたりする時は、まわりの音が聞こえる。特に自然の音がゆっくりと私の体の中に流れてくる。こんなこともあった。父が脳硬塞から失語症になり、時々トンチンカンな会話がはじまった。

“お父さんぶどう食べる?”と聞いても“ぶどう?”と首を傾げて解らないと言う。ぶどう、ブドウと書いても解らないと言う。葡萄と書くと解ると言う。カタカナ、ひらがな、特にひらがなの音の世界が父には失われてしまった。

音がないから父はあんなに怒りっぽくなって、ちょっと考えるということが出来なくなってしまったようだ。新聞は読めるけれど本は読むことができない。続かない。テレビはニュースか天気予報かスポーツ番組、ドラマは全然何をいっているのか解らないと言う。きれぎれになって物語が続かないと言う。

音のない世界にいた井上孝治は、どうしてあんなにイメージの豊かな写真を取り続けていくことができたのだろうか。写真は記録するだけでなく、その写真家、そして被写体の内面までも写し出す。その内面が見る者の心とぶつかりあった時、イメージは果てしなく広がっていく。100点ほど掲載された写真は被写体の人々の持っている暖かさと、生きていくことの厳しい孤独をあますことなく写しだしている。

文中、写真家飯沢耕太郎のこんな言葉がある「この人のカメラワークや写真に対する向き合い方を見ると、過去のある時代を写した写真家という以上の何かを感じます。それが魅力になっている。1つは非常に肯定的な写真ということです……後略」

この本は人生を肯定的に生きていくこと、この大きな意味をろうあの天才写真家井上孝治を書くことで著者の思いは十分に伝えられている。

『音のない記憶 ろうあの天才写真家井上孝治の生涯』黒岩比佐子著