■親子で楽しむ千葉の歴史〜2004年3月〜



江戸時代の宮野木村・14

稲毛村を歩く

今回は、浅間神社で江戸時代のものを余り見つけられなかったので、今までの村々と同じように、江戸時代の稲毛村があった場所を歩いてみることにしました。

昔の地図から村の場所を探す。

浅間神社は、江戸時代を通じて信仰を集めていた名所だったので、神社周辺の絵図や古地図は沢山残っているようです。今回は、四つの古地図を参考にしました。これらの地図は、すべて「千葉市史史料編8」にでていたものです。

1:浅間神社社地絵図(布施幸子家文書)
2:畑境争論裁許絵図(旧花光芳益家文書 寛文十二年 1673)
3:稲毛村絵図(吉田公平家文書 元禄二年 1689)
4:稲毛村字訳絵図(市立稲毛小学校所蔵 明治七年 1877)

まず、1の地図を参考にして、昔神社の領地だった百姓たちがすんでいた場所を歩いてみることにします。次に、2と3で昔の村の場所がどの辺かしらべました。

1や2の絵図を見ると、浅間神社の鳥居のすぐ外はもう海だったことがわかります。昔の稲毛村は、神社の社領地の北側に、台地の下のやつに沿って細長く広がっています。今マンションや銀行や商店がたくさんあるJR稲毛駅のまわりは、家も何もない田んぼでした。

そして最後に3の明治時代の字訳図と今の地図を重ねて、歩く道を決めます。

このようにして調べた昔の村があった場所と歩いたルートを、今の地図に記したのが右の地図です(地図をクリックすると拡大図が出ます)。

緑色が浅間神社の境内、赤が社地百姓の土地、青が川岸公園と墓地、黄色が江戸時代の稲毛村があった場所です。

(1)昔の社領地

浅間神社の東側の参道を出て、バス道を渡ってバス停「浅間神社」のところから右に入ると、ここは昔の社領地、社地百姓の家だったところです。ここは狭い道が迷路のように入り組んでいます。まっすぐ歩いていても、またもとのバス通 りに出てしまったりします。古い家が多いです。表札には、「布施」「海宝」などの苗字がとても多いです。家の庭の中に、鳥居がある小さな神社があったりして、面 白かったです。

(2)松の木の下の社とお地蔵さん
社領地だったとろこのはずれに大きな 松の木がありました。
その下に小さな 神社がありました。その脇には、お地蔵さんがありました。

寶暦十一年十一月二十四日(1762) 地蔵菩薩像 と刻んでありました。
(3)川岸公園と墓地

江戸時代の地図二つのどちらにも、社領地のはずれのほうに、四角く囲ってある場所があります。明治時代の地図には、「斃馬捨場」と書いてありました。これは、死んだ馬をすてる場所です。この場所に行ってみると、ここは公園になっていました。馬捨て場には、時代が経っても家は建たないんだなあと思いました。公園の中に、例えば馬頭観音のようなものは無いか探しましたが、何も無く、馬捨て場のなごりはありませんでした。公園の隣は墓地です。

寛政十一年(1800)
文政四年(1822)
天保二年(1831)
文久二年(1862)

など、江戸時代のお墓がたくさん 残っています。
お墓の名前も「布施」「布瀬」「川島」「海宝」などが 多かったです。
(4)昔の稲毛村

小さな川(草野下水路)を渡って、右に曲がって歩きます。この川は、江戸時代の地図に出ている「神社境細川」なのでしょうか。すぐに昔の稲毛村に入ります。道の左手には、立派な門の大きな家が並んでいます。表札は、「川島」「海寶」さんが多いです。

(5)千蔵院

道をしばらく進むと、右手に千蔵院の大きな屋根が見えてきました。江戸時代の地図には、お寺の場所が載っていません。でも、「千葉市史 史料編8」には、「江戸時代には浅間神社の境内に南蔵院というお寺があった。」と書いてあります。

この「南蔵院」は、浅間神社のお掃除などをしていた人が、その働きを認められて、神社の境内にお寺を開くことを許されたのが始まりなのだそうです。千蔵院と南蔵院は同じお寺なのでしょうか?千蔵院の門を入って右手に、小さなお堂があって、その前に石塔が二つ立っています。

向かって右手の塔には
正面  南無大師遍照金剛
右側 文政十年十一月吉日 十九夜講
左側 四国八十八箇所 廿六番 土州西寺模 南蔵院

左側の塔には
正面  南無大師遍照金剛
右側 文政十年十一月吉日 十九夜講中
左側 四国八十八箇所 廿七番 土州神峰寺模


千手寺 「模」とは、辞書で引くと「ひながた・てほん・まねる」という意味です。

お堂には、四国のお寺の御詠歌がかかっていました。もしかしたら、この辺りには南蔵院と千手寺というお寺があって、それぞれが四国の26番と27番の「模」、つまり、このお寺におまいりすれば、四国のお寺をお参りしたのと同じだという意味だったのではないかと思います。第三回で調べた犢橋村の長福寺の四国八十八箇所の像にも、四国のお寺の名前の下に、「写 」と刻んでありました。 では、この千蔵院と、石塔にある二つのお寺南蔵院と千手寺はどういう関係なのでしょうか。

帰って、公民館で「社寺よりみた千葉の歴史」(昭和59年 和田茂右衛門著 千葉市教育委員会発行)という本を借りて調べてみました。その本の161ページに、「千蔵院は、真言宗のお寺で、南蔵院と千珠院を合併した」と書いてありました。千手と千珠の字がすこし違うのが気になりましたが、多分、このお寺は、昔の南蔵院と千手寺だということが分かりました。西寺と神峰寺は、四国のガイドブックに出ている今もある八十八箇所のお寺だと確認しました。お堂のそばには、江戸時代の古いお墓がいくつかありました。

(6)馬頭観音と道しるべ

千蔵院を出て、六分ほど歩いていくと、十字路に出ました。この辺りで、江戸時代の畑を見てみようと思って、道を左、稲毛中学校のほうに向かう坂を上り始めると、すぐに道の右側に、古い石碑が見えました。調べてみると、観音巡礼の供養塔・古い道しるべでした。

文化十一年戌年 西国秩父坂東観音供養
施主 當村中
右 さくら道
左 こてはし道

と刻まれていて、道しるべになっています。文化十一年は1815です。

供養塔の脇には、小さなお堂があって、その中にはお地蔵さんと馬頭観音がありました。

お地蔵さんには、

享保十三年十月(1729)
右 こてはシ 道
左 さくら 道

と刻んであります。江戸時代の地図をみると、ここは稲毛村の村境です。村境なのでこのような道しるべが立っていたのだと思います。上り坂を登りきると、東関東自動車道を越えて、江戸時代の地図に出ている畑が広がっています。でも、区画整理が進んでいて、新しい家がたくさんできています。

(7)道祖神神社と道しるべ

もとの小中台村に向かう道に戻ります。京成電鉄の下をくぐると、左手の高台に和田墓地が見えてきます。その麓に、大きな木があって、その下に道祖神神社があります。神社の少し先に、小さなお堂があって、その中には村はずれにあったのとそっくりな観音巡礼の供養塔がありました。ちがうのは右と左の道しるべの行き先です。

文化十一年戌年 西国秩父坂東観音供養 施主 當村中
右 ちば道
左 さくら道

そばにあるお地蔵さんの道しるべにも、

南 千葉道
東 さくら道

と刻んであります。そして、明治時代の馬頭観音がいくつか並んでいました。道はJR総武線のガードの下をくぐって、小中台村に向かって続いています。浅間神社と稲毛村を歩いて、いろいろ分からないことがありました。もし稲毛村について詳しい方がいらっしゃいましたら、是非教えてください。お願いします。

次回は、宮野木村について調べます。

(神田まどか)