■親子で楽しむ千葉の歴史〜2004年2月〜



江戸時代の宮野木村・13

浅間神社と稲毛村 前回、小中台村の熊野神社を訪ねたとき、この場所に元々稲毛の浅間神社があったということを知りました。そこで、今回は、稲毛の浅間神社と稲毛村について調べたことを書きます。

1:浅間神社

浅間神社とは
浅間神社は、千葉市稲毛区では一番大きい神社だと思います。去年の11月、妹の七五三のお参りをここでしましたし、私の七五三もここでやりました。7月15日には夏祭りがあってとてもにぎやかです。私も友達と去年の夏祭りに出かけました。お祭りは、夜店がたくさんあって、楽しいです。

HPで調べたこと
浅間神社のHPがあります。そこには、神社の沿革がでていました。

沿革 当社は、富士山を神と仰ぎ奉る信仰にはじまります。大同三年(808)平城天皇の御代、現在の静岡県富士宮市大宮に鎮座する、富士山本宮浅間大社のご分霊を奉斎したのが起源とされています。治承四年(1180)には、源頼朝が東六郎胤頼を使者として御幣物を捧げて武運長久を祈願したのをはじめ、千葉常胤以来、代々の千葉氏の信仰が篤かったことが古記録等により伺い知れます。

千葉市史に出ていたこと
「千葉市史 史料編8」301から392ページからの稲毛村のところには、浅間神社について沢山のことがかかれています。全部は紹介しきれませんが、少し紹介します。

(1)縁起・稲毛山根本記

浅間神社の縁起「稲毛山根本記」大同三年(808)にかかれたものと伝えられています。書いてあることは、大同三年に富士本宮浅間神社から、小中台村に分霊が祀られるようになって、後に稲毛村に移ったことなど、神社のHPに書いてあることとだいたい同じです。「稲毛山根本記」の中に、次のような文がありました。

白衣の神女稲毛をちらし清山となす故にいなけ山稲毛の郷とかふす小中台の里宮木のさと園生のさと入郷四箇所ハけだし神造の神田なりと平城天皇御宇 大同三年戊子五月晦日云云

こんなに昔の文書に、稲毛・園生・小中台・宮野木は、「四つの里」として一緒にでていたとしたら、本当に驚いたことだと思いました。

(2)いろいろな裁判

神社の神主は、布施家が代々勤めていたそうです。布施玄蕃、布施加賀、布施長門などといった昔の神主さんのお名前が、古文書にでています。そのような昔の布施家には沢山の古い文書が残っていて、その中には布施家(神主さん)と近くの百姓との間で、お祭りのときのお店の場所などいろいろなことを巡っておきた裁判の話がでています。

(3)社領のお百姓

浅間神社には、「社領」として40軒ぐらいの「社地百姓」がいたそうです。

(4)そのほか

神主は代々布施家ですが、神社には社人もいました。社人には海宝という名の人が多かったようです(海宝与惣右衛門、海宝惣左衛門)。江戸時代のお祭りは5月31日から6月1日で、社内に300軒もの小屋がけをして、近国の売人が来て参詣の道沿いに商売をしていた、と書いてありました。

浅間神社で見つけたもの

浅間神社にでかけました。七五三や夏祭りで何回も行った事がありますが、江戸時代の昔のものを探して、神社を訪ねて、境内を歩いて見ました。

(1)鳥居、松林と丘、参道

国道14号をはさんで、大きな鳥居があります。これが一の鳥居です。昔は、ここまで海だったことが、江戸時代の絵図でわかりました(下のの絵図を見てください)。国道をわたると二の鳥居があります。これをくぐると、背の高い松林と表参道です。しばらく松林を行くと、参道は登りの階段になります。浅間神社のHPの「沿革」には

「文治三年(1187)の社殿再建に際しては、富士山の形に盛り土をし、参道も富士山にならい三方に設け、社殿は東京湾を隔てて富士山と向き合って建立されました」

と書いてありました。この神社のある山が、自然にできた山ではなく、人が土を盛って造った人口の山だとは、驚きました。
(2)社殿

参道を登った一番高い場所に社殿があります。私が七五三のお祈りをした本殿、お神楽をする神楽殿、そして社務所などがあります。立派な本殿ですが、この本殿は、昭和41年(1966)に再建された新しいものだそうです。古い本殿は、文治時代のものがあったそうなのですが、昭和39年(1964)に原因不明の火災によって焼失してしまったそうです。

(3)巡礼の石碑や祠など

今まで訪ねた古い神社やお寺にあったのと同じ、出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の巡礼の記念碑が、本殿の真裏の北東側から登る参道を入ったすぐ右に15個建っています。富士山を信仰する神社なので、富士登山・参詣の石碑も6個建っています。でも、どれも明治時代以降のもので、江戸時代のものはありませんでした。ほかにも、表参道の方に稲荷様や大宮神社、三峰神社などの小さな祠がたくさんあります。

(4)みろくさま
北東側の参道を登りきった、社務所のすぐ下に、「みろくさま」の石仏がありました。

「弥勒菩薩」は、仏教ではお釈迦様とともにとても大切な仏様です。このみろくさまは、江戸時代の「身禄」という山岳行者で、富士山を弥勒菩薩の浄土に見立てて人々を救う、という教えで多くの信者がいたそうです。

江戸時代の稲毛の富士講も、この「みろくさま」の影響をうけていたそうです。
(5)石碑の台

本殿左手、もうひとつある北側の参道の脇、神楽殿の下に、石碑があります。

「書行藤佛狗」「食行身禄狗」「日行王旺」「月行大法」
などと刻んでありますが、この字が何を表しているのか、私にはわかりません。もしかしたら、山岳修行に関係した神様の名前なのでしょうか。この石碑の台座には、商人たちや講(こう)の名前が刻んであります。その名前の上には、「水」「眞」「包」「工」「登」などの文字が、山のマークの下に刻んであります。これが、何を表すのか、わかりません。江戸の商人の名前が最初に大きく刻んであります。千葉の講中(こうちゅう)が一番多いですが、中には宮ノ木の人の名前も刻んであります。

稲毛村は、「本郷」「川岸」「新宿」という字の講が刻んでありました。 石碑のそばには、大きなイカリがありました。小中台村の漁業共同組合が奉納したものです。でも、これは昭和時代のもので、江戸時代のものではなかったです。

(6)庚申様

石碑のそばに、庚申様のお堂がありました。そばには説明札がたっています。

昔、中国の伝えでは、「人間の体内には三尸(さんし)という鬼族に属する虫が宿っていて、庚申(かのえさる)の夜、人が眠っている間に体内を抜けて天に登り、天帝に人の悪事を訴え命を縮める」と恐れられました。日本に伝わったのは平安時代ですが、江戸時代になると人々は講を組み庚申の夜に宿に集まって、身を清め、お経や祝詞を唱え食事をして徹夜をしました。これを庚申待(こうしんまち)といいます。その時に「庚申様」として祈りの対象となったのが、「青面金剛」や「猿田彦命」です。

このお堂の中には、「青面金剛」の石仏がまつられています。像の左側には、

元文五年十月吉日(1741)
稲毛村講中
と刻んであります。「青面金剛」は手が六本、刀や弓矢を持っています。頭の左右には月と太陽が刻んであります。足の下には鬼を踏んでいて、その下には三匹の猿が「見ざる言わざる聞かざる」のポーズをとっています。

以上、浅間神社の境内では、「みろくさま」 「石碑の台座」「庚申様」などの江戸時代のものをみつけることができました。
(神田まどか)