■親子で楽しむ千葉の歴史〜2003年12月〜




江戸時代の宮野木村・11

今日は、園生村のまとめをします。園生村は、この自由研究でしらべた村の中では、一番古い書物が残っています。それは、吉田家文書という書物です。千葉市史8にも、たくさん載っています。

古い地図でみた村の形

稲毛からのバス通りで小中台三叉路の先、千葉市立高校の手前の用水路とハイツがあるあたりが、昭和30年代までは水田・谷津でした。その谷津にそって、北側にWの字の形をして、園生村がありました。それは、古い地図でも今の地図でもわかります。園生村の江戸時代の古い地図をみつけることができました。(下地図)それには宮野木村と一緒に園生村が載っています。今の地図とくらべてみても、谷津の形がほとんど同じなのでびっくりしました。
園生村はだれが治めていたか(村長さんはいたのか)

園生村は、犢橋村と宮野木村が何人かの旗本たちに支配されていたのとは違って、一人の旗本に支配されていました。その旗本は、山名氏です。山名氏は、室町時代に大名だった時から続く名門の武士で、江戸時代には徳川家の旗本になったそうです。山名氏がいつも園生村にいたのではなくて、村には「名主」がいて、村長の役割をしていました。

どんな人が何人ぐらいいた村だったか

安政2年(1855)には、園生村には51軒の家があって、男の人178人、女の人175人、合計353人の人が住んでいました。馬は全部で12頭いました。犢橋村でやったように人口グラフを作りたかったのですが、資料をみつけられなくてできませんでした。

何をして暮らしていたか(産業は?農業?)

水田で稲をつくり、畑で薩摩芋をつくり、山でまきを採ってくらしていました。商業はありませんでした。

どんな事件があったか・用人宮川一馬との争い

園生村と小中台村を支配していた旗本山名氏は、百姓をおさめたり、年貢をとる仕事を、宮川一馬という用人(ようにん:一時的にやとった家来)にすべて任せていました。この宮川一馬という用人はひどい人でした。

寛政4年(1792)3月、園生村と小中台村の名主が一緒に、宮川一馬をやめさせてほしいと山名氏にお願いしました。でも、山名氏は人々のいうことを聞かないで宮川一馬をやめさせませんでした。宮川はどんどんひどいことをしたので、寛政8年(1796)3月、園生村と小中台村の名主は、宮川のした悪いことを責めたてる手紙を領主の山名氏に出しました。宮川は、年貢を一方的に多く取り立てたり、わいろをとったり、自分の気に入らない村役人を一方的にやめさせたり、村のひとから集めたお金の管理がおかしかったり、いろいろな悪いことをしていました。

園生村と小中台村の人たちは、すぐに宮川を屋敷から追い出さないと承知しない、と厳しく山名氏に訴えました。詳しいことはわかりませんが、その事件の後、宮川は村の記録に全然のこっていないので、村から追い出されたといわれています。(千葉市史 史料編8 近世 千葉市より)

感想……この事件を読んで思ったことは、今も昔もおなじようなことが起きているのだなあということです。それは、この前新聞やテレビで伝えられていた、道路公団の総裁の騒動のことです。お金の使い方(道路の作り方)について、総裁をやめさせてほしいという人たちがいて、大臣ははじめは総裁をかばっていましたが、大臣が変わると新しい大臣はすぐにやめさせてしまいました。

村を歩いて見つけたもの〜春日神社〜
バス通りから見ると、レストラン華屋与兵衛の後ろの方に大きな木が茂っているところがあります。ここは、神社です。

この神社には由緒や看板がなく、地図にも名前がでていないので、なんという神社かわかりませんが、明治九年の地図には、日枝神社とでています。

他に、大正九年の別の地図には、春日神社とでています。
(1)小さい石の祠
小さい本殿の脇に、石でできた20センチくらいの小さい祠が並んでいます。書いてある字が読めるのには、

水神  天保□年九月吉日
御神  文政十年 能勢

と彫ってあります。

本殿からすこと離れたところにも、二つ祠がありました。そのうちの一つは、石の表面がひび割れて崩れていて何が書いてあるかわかりませんが、

右側に 文化十戌天□□吉日(1813)
左側に 園生村 

と刻んでありました。園生村の字は大切だと思い、拓本をとりました(左側拓本)。

もう一つの祠には、

天明三年十一月吉日(1783)
第六天 金蔵院

と刻んであります(右側写真)。
第六天とは、何かわかりません。犢橋村の三社神社にもありました。金蔵院は、歩いて10分くらいのところにあるお寺の名前です。これからそこへ行きます。

村を歩いて見つけたもの〜金蔵院〜
金蔵院(こんぞういん)は、古い地図や村名主の吉田家の文書にも名前が出てくる、とても古いお寺です。

このお寺も、長福寺や地蔵院と同じ、弘法大師の真言宗のお寺です。
(1)古いお墓

お寺から少し離れた、バスどおりを渡った字西街道に、古い墓地があります。ここには、江戸時代のお墓がたくさん残っています。また、古い年号を書いて見ました。

宝暦五年(1755)
宝暦十二年三月十五日(1762)
安永二年(1773)
寛政二年(1790)
寛政七年(1795)
寛政十三年(1801)
文化十年(1813)
天保九年(1838)
嘉永元年(1848)
文久元年(1861)

古いお墓には、「植草」「笠川」「吉田」「石橋」という家の、江戸時代の立派なお墓があります。こういう家は、江戸時代から園生村に続く家です。今の園生には、こういう苗字の家が多いです。

吉田という家は、村名主様の家の名でもあります。
(2)十九夜講中の石仏

このお寺にも、長沼新田の駒形大仏や宮野木の甲神社にあったのと同じ、十九夜講中の石仏などが7つ並んでありました。一つ一つの文字を写してみました。

念佛講中十九夜講中
十九夜念仏講中
宝暦五年十月十九日(1755)
奉造立如意輪観世音菩薩二世安楽
十九日□□
十九夜念仏講中 延享五年十月十九日(1748)
十九夜講中
文化九年二月吉日(1812)
子安菩薩
文政十年十月吉日 園生村講中八十四人(1827)
奉造立 如意輪尊現當□益□
寛政八年二月吉日(1796)

十九夜講中とか、彫ってあって、立てた日は十月十九日が多いのは、なぜでしょうか。なぜかますます知りたくなりました。

薗生神社
金蔵院の本堂の奥から階段をのぼると、すぐに薗生神社です。この神社も古い地図に名前がでています。

本殿にかかっている額には、「薗生神社」と書いてあります。薗生の薗の字が今の園の字と違います。江戸時代の地図には薗の字ででていますが、さっきの日枝神社にあった、文化十年(1813)の祠には、「園生村」と書いてありました。時代とともに、村の名前も字の書き方が変わったようです。
まとめ

園生村は、今は大きな道路が通っていて、その道沿いには大きなレストランなどがありますが、その道からすこし入ると、とても静かで、今でも、レストラン「華屋与兵衛」や「とんでん」の後ろから、笠川農園に行くまでのあたりには、古いお墓や春日神社・金蔵院などの神社やお寺、せまい坂道に林、そして立派な門がある古い家々などがあって、江戸時代の景色があります。

(神田まどか)