■親子で楽しむ千葉の歴史〜2003年11月〜
三浦半島の遺跡調査
8月8日、家族で三浦半島にでかけました。台風10号が近づいていて、まだ晴れていましたが、三浦海岸は大きな波が打ち寄せていて、遊泳禁止でした。8月9日、三浦半島にある三浦市松輪の八ヶ久保の発掘現場に行きました。朝九時に三浦海岸の民宿を出て、車で南に進みます。黒い雲が空をどんどん流れていて、海岸にある風力発電の風車が大きな音をたててぐるぐるまわっていて、少し怖いです。
すいか畑の中に、発掘現場がありました。現場には、この前大学でお茶碗を見てくださった、桜井助教授や藤山さんがいました。昨日から、雨はぜんぜん降っていないそうですが、飛ばされそうなぐらい強い風が吹いていました。ほこりもすごいです。発掘の人たちは、写真を撮影したり、遺跡を掘ったりして忙しそうです。風なんか気にせずにやっている発掘の人たちはすごいなと思いました。桜井助教授はとても詳しくこの遺跡のことを説明してくださいました。
発掘をしている塚は、畑の中に盛り上 がった塚です。幅は20メートルぐらい、高さは2.5メートルぐらいです。この塚は、「ヤキバの塚遺跡」(発掘調査主体:三浦の塚研究会 代表:桜井準也助教授)という遺跡で、明治時代以降に近くの集落の人たちの捨てたものが積み重なってできた貝塚だそうです。
今は畑ではしっこが切り崩 されてますが、昔は幅30メートルぐらいの大きな塚だったそうです。三浦半島には、このような遺跡が20箇所ぐらいあるそうです。 |
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塚のはしに、半分埋まった江戸時代のお地蔵さんが立っています。ここは、昔お寺の領域だったのです。桜井助教授は、「お地蔵さんがあるところにゴミを捨てるなんて、変に思うかも知れませんが、捨てるということは、送る、ということにつながっているので、昔の人にとっては不自然ではないのです」とおっしゃいました。もしかしたら、昔の人たちは、使ったものを捨てるとき、生き物をお墓に入れるような気持ちでこの塚にすてたのかもしれません。
塚は、幅1メートル、奥行き8メートルの溝が切り込むように掘られています。これは、「トレンチ」といって、古墳などを調べるときに掘る方法だそうです。地元の農家の方に、村の人に、「重機でくずしてどんどん掘った方が楽なのに」と声をかけられるそうですが、それでは考古学の調査になりません。
妹と私はこのトレンチの中に入れてもらいました。塚を縦に切ったトレンチの断面は、時代ごとに8つの層になっています。一番上の層は戦後ぐらい、下に行くほど大正・明治と古くなって、深さは地面と同じ高さになっていて、ここは明治30年ぐらいだ そうです。
ということは、明治の半ばより昔の時代は、塚にはなっていなくて、平らで、ここに大きな穴を掘ってゴミを捨てていたそうです。土の断面から、たくさんの貝殻、お茶碗などが 見えていました。 |
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私と妹がトレンチに入れてもらった時は、もう掘り終ってきれいな四角になっていましたが、調査の人たちが上から順番に掘って行くところが見たかったです。
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遺跡からは、神照寺の跡で私が拾って、この前 先生方に見ていただいたものと同じような、明治時代の層からは型紙摺りのお茶碗、明治末から大正時代の層から銅版摺りのお茶碗が沢山出てきています。
だいたい割れていますが私が 神照寺などで拾ったものより、大きくて、全然壊れていないものもあります。
他に漁業で使った 網の重りなどの道具、貝殻などいろいろ なものがありました。 |
あと、この塚には、子供の使っていたものが出て きたそうです。靴、おもちゃ、人形など、お地蔵さんは子供の仏様ですから、子供のものは ここに捨てる、というきまりのようなものがあったそうです。
私は、塚のそばで、貝殻やお茶碗のかけらなど、漁具の重りなどを拾いました。そして、発掘の人に断って、持って帰れることになりました。これは、みんな私の宝物です。
私は、昔の人が使ったものを見ていると、どんな顔の人たちが使っていたのか、なんていう名前の人が使っていたのかなあと思ってしまいます。とても詳しく説明いただいているうちに、時間がすぎて、すっかりお邪魔してしまいました。もし天気がひどくならなければ、明日は一般の人を対象にした遺跡調査説明会を開催するそうなので、今日はこれで失礼することにしました。
遺跡から三浦海岸に戻ってしばらくすると、雨が降ってきました。ちょうど台風が通過するところです。とてもひどい雨で、お昼には暴風雨になりました。海沿いの道は水浸しで、波にのまれそうで怖かったです。強い雨は夜までずっと降っていました。
8月10日、朝起きてみると、台風は過ぎて、とてもよい天気になっていました。午後二時の説明会に間に合うように、遺跡に出かけました。今日は、昨日より大勢の発掘の人たちがいます。
塚の上から遠くを見ると、私が住んでいる房総半島がはっきりと見えました。説明を聞きにくる人がどんどんやってきます。そして、午後二時、桜井助教授の説明が始まりました。
桜井先生は、遺跡の古さやお地蔵さんのことなど、 昨日説明いただいたことを丁寧にお話されていました。
そして藤山さんが、トレンチに入って、 層のことを詳しく見学の人たちに説明します。そのあと、この遺跡から出てきたものの詳しい 説明がありました。 |
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遺跡からでてきたものの説明が、とても面白かったです。八つに分けられた層ごとに出てきたものが古い順に、箱に入れられて展示されています。
5層……明治時代の地層です。明治時代の型紙摺りのお茶碗がありました。それと、江戸時代のお茶碗が出てきたそうです。これは明治時代の人が捨てた江戸時代のお茶碗です。それと、お歯黒の道具がありました。お歯黒は、昔の結婚した女の人が歯を黒くそめた道具です。ほかには、お化粧に使った油壺があります。
4層……江戸時代の徳利や、明治の印判手という型紙摺りのお茶碗などが見つかったそうです。あと、ガラス製品も出てきて、昔のビール瓶やくすり瓶が出てきたそうです。それに、明かりの道具で、ランプの火屋(ほや)がでてきたそうです。
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3層……明治から大正時代の銅版ずり、ランプ の金具などが出てきています。
2層1層……お茶碗にタンクや日の丸が描かれた子供茶碗が出てきます、戦争中の子供は、このようなお茶碗で、ご飯を食べて 暮らしていたのだと思いました。
表土……一番上の層です。そこには、陶器でできた地雷があったので、とても驚きました。戦争中、三浦には海軍の基地があって、戦後にこのようなものが捨てられたそうです。
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その後、この貝塚から見つかった貝殻や漁の道具の説明がありました。
貝殻は、サザエやほら貝、アワビ、トコブシなど、沢山の種類の貝がみつかりました。サザエやほら貝などは、今では取れないような大きな物がでます。漁に使った道具は、タコツボ、釣り針、などがあります。
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右の写真は土錘(どすい)といって、土の焼き物でできた漁網の重りです。そして、戦争が終わって、昭和30年代(私のお父さんが生まれたころ)ゴミの収集が始まると、この塚にゴミが捨てられることはなくなりました。
私は、貝塚は縄文時代のものだと思っていました。でも、江戸時代より後の時代でも、こんなに大きな貝塚ができているんだと思いました。 |
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桜井先生は、江戸時代や明治時代より後の遺跡についても、縄文時代の遺跡の発掘とまったく同じ考古学の方法で、詳しく調べていくと、その村に暮らした人々の暮らしを調べることができると考えているそうです。
ゴミというのは、汚いイメージがあるけれど、昔の人が捨てたゴミを調べると、昔の人の暮らしが分かるので、ゴミは大切だなあと思いました。貝塚は、縄文時代のものとおもっていました。明治時代にできた貝塚もあるんだと思いました。明治時代の終わりから80年の間で、ひとつの村がすてたゴミでできた高さ2メートルの貝塚をみて、思ったことは、昔のひとはものを大事にして、捨てるときはお地蔵さんのそばに大切に捨てていてたんだなぁと思いました。
私たちが、ひとつの町内でゴミ塚をつくったら、一年でとても大きなゴミ塚になると思いました。そのゴミは、ペットボトル、ビニール、生ゴミなどです。私たちのゴミの量は昔にくらべて多すぎると思いました。
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