
■親子で楽しむ千葉の歴史〜2003年10月〜
今回は、先月に引き続いて、神照寺跡と畑村の畑で拾ったものの鑑定について書きます。前回、慶応大学文学部民族学考古学研究室の先生方に、お茶碗のかけらを鑑定していただきました。続いて、縄目のついた古そうな土器を見ていただきました。
全部で二十数個の土器のかけらは、研究室にいらっしゃった大学院の藤山さんが鑑定してくださいました。そのまとめは次の通 りです。 ■縄文時代前期の終わりから中期まで(約5,000年前)………………………… 3個 ■縄文時代中期の後半(約4,500年前〜4,000年前) 加曾利E式土器………… 8個 ■縄文時代後期の前半(約3,500年前〜3,000年前)堀之内式土器…………… 5個 ■弥生時代の土器(約2,300年前〜1,700年前) …………………………………2個 ■古墳時代の後期の土師器(約1,000年前) ………………………………………3個
朽木先生、そして慶応大学助教授の桜井先生、藤山さんにも沢山のかけらや土器を見ていただいて、いろいろなことがわかったので、それをまとめます。 (1)お茶碗はとても古いものがありました。もしかしたら、最近捨てたばかりのゴミかもしれないと思っていましたが、神照寺跡と畑にあったお茶碗は、一番古くて17世紀、300年以上前の江戸時代のお茶碗があったので、とてもびっくりしました。 (2)お茶碗の時代は、江戸から戦前までの様々な時代にわたっていました。お茶碗のかけらは、江戸時代から明治時代、大正時代から、戦前ぐらいのものまで長い間に使われたものが落ちていたことがわかりました。そして最近の新しいものはありません。 (3)土器は、縄文時代のものがありました。 古い時代の土器は、縄文時代の前期から中期、後期、そして弥生時代から古墳時代まで長い間のものが拾えたことがわかりました。
(1)お茶碗は、神照寺で使っていたものでしょうか? 私は、最初は神照寺の跡にあったお茶碗は、神照寺で使っていたものだと思っていました。でも、お父さんに、他の近くの畑にもお茶碗のかけらは落ちていると教えてもらってから、本当に神照寺で使っていたものか分からなくなりました。でも、仏飯器や観音様らしい仏像の一部は、お寺の跡だったから見つけられたのだと思いました。すると、先生は、仏飯器はお寺だけにあるものではなくて、普通の人の家にもあったとおっしゃいました。 それに、畑村の畑でも、神照寺の跡と同じくらい昔のお茶碗のかけらが拾えるので、神照寺の跡にあったお茶碗は、「絶対神照寺でお寺の人が使っていたとは限らないな」と思いました。軍隊の食器がお寺の跡にあるのも変です。念のために、神照寺の跡と畑で拾ったものの数を表にまとめました。
(2)なんで畑にお茶碗のかけらが落ちているのでしょうか?何で畑にお茶碗がおちているのでしょうか。縄文時代の土器は、昔住んでいた人のものが落ちているのだと思います。でも、江戸から明治時代、大正時代のお茶碗はどうしておちているのでしょうか。桜井助教授も、ふつう畑にはお茶碗などはなく、昔の家の跡やゴミ捨て場のような遺跡にしかないそうです。昔の畑村の人たちが、ゴミを大切な畑にすてるはずはありません。もしかしたら、畑によその土地の土を運んできたからかもしないとおっしゃいました。 (3)畑村には型紙摺りが少ししかないなぜかわかりませんが、畑村の畑では型紙摺りがたった2個しかありませんでした。でも、探せばあるかもしれません。
黒川日出松(くろかわひでまつ)さんは、昔の宮野木村から続く大きな古い農家の方です。いつも『千葉市史』を借りる公民館の足立さんが、私に『ふるさとの言葉』というこの地方の方言の本をくださいました。その本の作者は、黒川日出松さんでした。足立さんは、「黒川さんは宮野木の歴史に詳しいひとですよ」とおっしゃいました。
黒川さんは、宮野木の歴史に詳しくて、本当におどろきました。宮野木村のことを調べる前に、黒川さんにお会いできて、本当によかったと思います。黒川さんから教えていただいたことは、宮野木村の時に詳しく紹介しますが、今日は畑で拾ったお茶碗のことについて書きます。
黒川さんに、どうして畑で江戸時代のお茶碗が拾えるのでしょうか、と聞くと、それは、江戸ゴミにまざって運ばれてきたものだとおっしゃいました。お借りした黒川さんの「宮野木の今昔物語」に、次のように書いてあります。 その昔、戦前は東京芥〔あくた〜ゴミのことです。注:まどか〕、江戸芥といわれていたのが東京都内から出る生芥のことで、現在は千葉でも芥の捨て場が大きな問題となっている。当時は、宮野木はもちろん、付近の農家は堆肥の材料として皆欲しがっていた。東京の芥が舟で運ばれ、検見川五丁目付近に陸揚げされ、これを牛、馬車一台分何円で売られて、何台も買ったもので、案外高いものであった。 この芥は、生芥なので、積み出しの際、すでに発酵し始めている。これをふるいにかけるのは祖父さん、祖母さんの仕事で、堆肥になるものと、貝殻・瓶・空き缶などとに分けて、堆肥にならないものは、道路のへこんだところなどに捨てる。残った堆肥材料は、落ち葉・枯れ草・藁などと一緒に積み重ね、良質の堆肥にしてから、さつま芋の元肥料として使用する。この芥をふるいにかけると中に、鉄屑、銅線、真ちゅうが多くあり、売れてお金になった。 黒川さんは、このような江戸ゴミの買取は終戦後まであったとおっしゃいました。馬車一台三円ぐらいで、発酵した生ゴミは熱を出していたそうです。三円は、今のお金でどのくらいか、私にはわかりません。どのくらいのお金でしたかとききました。すると、今150円ぐらいのタバコが、当時七銭だったそうです。七銭は、一円の百分の七です。馬車一台何千円もしたのでしょうか。 ただし、全部江戸ゴミの値段ではなくて、運ぶ手数料も入れて三円だったそうです。黒川さんに泥面子をお見せすると、こうしたものは、畑にまいても邪魔にならないので、そのまま畑にまいたそうです。でも、貝殻や鉄屑などは、道にまきました。当時の農道は、すこし雨が降るとぬかるんで水溜りができやすく、そこにゴミに混ざっていたお茶碗のかけらなどを捨てたそうです。
黒川さんに、神照寺や畑村で拾ったお茶碗のかけらをお見せしました。すると、畑村で拾ったものぐらい細かいものは、江戸ゴミだろうけど、神照寺跡のかけらは「これは結構大きくて、おじいさん・おばあさんがふるいにかけて取り除くはずです。そうしないと、怪我をしてしまいます。江戸芥は、田に入れることもあり、田には裸足ではいるので、このような大きい破片は、危ないです」とおっしゃいました。
慶応大学の先生方に見ていただいたことと、黒川さんのお話で、次のようなことが分かりました。 1.神照寺の跡で拾えた縄文土器・弥生土器などは、何千年も前にそこで住んでいた人たちが残したものです。 2.畑で拾った江戸時代から明治大正のお茶碗のかけらは、泥面子と同じで、江戸から運ばれてきた堆肥に混ざってきたもので間違いないと思いました。 3.神照寺の跡で拾えた、江戸時代から戦前にかけてのお茶碗のかけらなどは、昔神照寺で使われていたものなのか、それとも江戸から運ばれてきた堆肥に混ざってきたものなのか、わかりません。でも、私は、像の一部や、仏飯器などもあり、また畑で拾える茶碗のかけらより大きいものが多いので、少しは昔神照寺で使っていたものもあるような気がします。
慶応大学を失礼するとき、朽木先生は、 『8月の4から13日まで三浦半島の先端、三浦市松輪の八ヶ久保というところで、近現代の「貝塚・ゴミ塚」の発掘調査をやっています。夏休みの時期なので、興味がお有りでしたら見学にいらして下さい。江戸時代以降、近現代までの「村」の様子を貝殻やゴミから探ろうという試みです。同時に聞き取り調査や、石造物の調査などもやって総合的な村落景観・地域史復元を模索しています。』 と、案内資料をくださいました。ぜひ行きたいと思い、お父さんにお願いして見学してきました。そのことについて、次回紹介します。
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