■親子で楽しむ千葉の歴史〜2003年8月〜



江戸時代の宮野木村・7

今日は、犢橋村の三社神社でみつけた江戸時代の村人の名前についてと、図書館の本で調べたことを中心にして犢橋村のまとめをします。

石灯籠の江戸時代の村人の名前

三社神社二つ目の鳥居をくぐると、石灯籠が左右に建っています。立派な灯籠ですが、
太々講中 文政十二年(1829)
と刻まれていて、とても古いものです。その一番下の石に、この灯籠を建てるお金を出した人たちの名前が刻まれていました。(写真) その名前は

★向かって右の灯籠
世話人  仁兵ヱ  (にへい)
     佐平治  (さへいじ)
     平左ヱ門 (へいざえもん)
     七右ヱ門 (ななえもん)
     仁左ヱ門 (にざえもん)
     清十良  (せいじゅうろう)
     又四良  (またしろう)
     沼十良  (ぬまじゅうろう)
     伊右ヱ門 (いえもん)
     惣左ヱ門 (そうざえもん)
     新右ヱ門 (しんえもん)
     平右ヱ門 (へいえもん)
     弥平   (やへい)
     治良ヱ門 (じろうえもん)

★向かって左の灯籠
世話人  忠右ヱ門 (ちゅうえもん)
     藤左ヱ門 (とうざえもん)
     重助   (じゅうすけ)
     源右ヱ門 (げんえもん)
     久右ヱ門 (きゅうえもん)
     政右ヱ門 (まさえもん)
     太良右ヱ門(たろうえもん)
     忠兵ヱ  (ちゅうべえ)
     左兵ヱ  (さへえ)
長沼新田 治左ヱ門 (じざえもん)
     政右ヱ門 (まさえもん)
     紋兵ヱ  (もんべえ)
     清三良  (せいざぶろう)

この名前の人たちは、江戸時代に本当にいた人たちの名前ですから、とても面白いと思いました。時代劇に出てくる人たちの名前と、少し違うような感じもします。

また、左側の灯篭には、この村以外に隣村の長沼新田の人が何人か参加していたことも分かりました。

狛犬と本郷若者中

神社には、必ず狛犬がいます。

この三社神社の狛犬は、台の石に、

文政十二年四月吉日(1829)
當村本郷南東 若者中  (左の犬)
金弐歩寄付 江戸 籐兵ヱ(右の犬)

と刻まれています。(写真)
左の犬は、この村の本郷という地区の若者たちが、右の犬は江戸の籐兵ヱ(とうべえ)さんという人が(この村の出身なのでしょうか)お金を寄付したのだと思います。
江戸時代の戸籍で調べた犢橋村の村人の名前

灯籠や狛犬に書いてあった名前は、全部男の人の名前で、女の人の名前がありません。女の人はどんな名前だったのでしょうか。

公民館で、また「千葉市史・資料編8」を借りてきました。(平成9年3月31日 千葉市史編纂委員会 編集 千葉市 発行)すると、その81ページに、「吉田氏知行分宗旨人別控帳」という資料がありました。

これは、犢橋村の家のうちで、吉田氏がおさめていた91軒の百姓の家族について、天保11年(1840)に調べたものです。石灯籠が出来たのとだいたい同じころです。そこには、次のような形で家族のことが書いてあります。


1:女性の名前

女性の名前は、次のような名前です。


今の女性の名前とは全然違います。みなひらがな二文字です。ゆりは、私のお母さんと同じ名前です。私の名前はありませんでした。

ふん とり すて へん など、ずいぶんおかしな名前に聞こえます。

でも、みな ゆり さよ などは、今でもある名前です。

市郎右衛門さんの家の「後家」とは、どういう意味かお父さんに聞くと、ご主人が亡くなった奥さんのことだそうです。

2:父の名前がない

四郎衛門さんの家では、父の名前が空白になっています。四郎衛門さんの家だけではありません。他にも、六十歳ぐらいより歳をとっている父は、皆名前がありません。何ででしょうか。もしかしたら、名前を子供に譲ったのでしょうか?

3:藤左衛門の家

後で説明しますが、「犢橋村の打ちこわし事件」のリーダーの藤左衛門と同じ名の家もありました。このとき(1840)に藤左衛門は22歳です。

他に同じ名前の家はないので、この藤左衛門が1829年に灯籠をつくったとすると、わずか11歳ということになってしまいます。また、1867年の打ちこわしのリーダーだったとすると、49歳のときのことです。

いろいろな家族がいます。でも、大体おじいさんおばあさんもいる大家族です。子供の兄弟はだいたい2人から3人ぐらいが多いです。上の太左藤門さんの家では、子供たちに、自分の名前の漢字の太という字をつけています。

犢橋村のまとめ

犢橋村には、三社神社や長福寺という古い神社やお寺があって、いろいろなものを見つけました。畑や空き地には泥面子が落ちていました。

江戸時代の地図で、神照寺という昔の寺の跡をさがしたりしました。村の道路には、古い道しるべがありました。とても面白かったです。今回で犢橋村は終わりにしますので、まとめをします。

・古い地図で見た村の形

犢橋村の江戸時代の古い地図を、図書館の本「千葉市史」で2つ見つけました。第4回で、その一枚と、今の地図を比べましたので、もう一度見てください。

村の形は今も昔もそんなに変わっていないようです。水田に2つの台地が南にのびていて、そこに村と畑があります。西の境は今の花見川ですが、江戸時代は印旛沼の割堀(水路)だったそうです。村の真中を、東西に東金御成街道が横切っています。

・犢橋村はだれが治めていたか(村長さんはいたのか)

「千葉市史」で調べたことを書きます。

この村は、吉田氏という旗本と、小栗氏という旗本(はたもと)、そして江戸南町奉行所の与力(よりき)の三人が、村を3つに分けて治めていました。旗本とは、徳川将軍家に使える身分の高い侍です。1つの村に1人の村長さんがいたのではないです。1つの村が家ごとに分かれてそれぞれ別々の侍(旗本や与力)に支配されていて、別々に年貢を納めていました。侍は、普段は村にはいません。来ることはまずなかったそうです。

年貢は名主という村役人が取り立てました。だいたい出来るお米の6割を年貢として取られました。でも、領主は年貢を取るだけではなく、村の神社やお寺に寄付をしたり、また何か事件が起きると家来が来たそうです。

・どんな人が何人ぐらいいた村だったか 

第2回で1つの表にした、安政2年の記録 検見川・馬加組合村々地頭姓名其外書上帳 安政2年(1855)をもう一度見ます。村には759人の村人がいて、馬は61頭、他の村に比べると大きい村でした。その759人の村人が、2人の旗本と1人の奉行与力に分けられていました。

石高
吉田氏
96
571
40
467
小栗氏
25
165
18
191
南町奉行与力
4
23
3
33


・何をして暮らしていたか(産業は?農業?)

みな田んぼで稲をつくり、畑ではさつま芋をつくり、農業の合間に薪を取っていました。他の村と違って、この村には、江戸時代の街道「東金御成街道」が通っていたので、その街道沿いに、旅籠1軒と茶屋が3軒あります。あと、質屋もあります。今のホテルとレストランと銀行が、大通りにそってある村だったのです。

・どんな出来事があったか 打ちこわし事件

江戸時代の村々の水田でできた稲を干す場所を、稲干場といい、谷津の上の台地にありました。

この稲干場の開発をめぐって、村が2つに分かれて大変な争いになりました。この事件は、慶応2年(1867)の村方騒動といいます。千葉市史に載っています。

争いは、吉田氏の領地にある一つの稲干場を、慶応2年のお正月に、村役人のグループと、藤左衛門というお百姓グループの、2つのグループがそれぞれ開発したいと思ったことが始まりました。2月になって、吉田家の家来が様子を見に来て、吉田家の支配する百姓たちだけに開発地を分けるように命令しました。

2月23日、藤左衛門のグループは、稲干場を畑に開発して、藤左衛門のグループの人たちだけで分けてしまいました。そのグループの中には、吉田氏のお百姓ではない、小栗氏の百姓もいましたので、村役人グループは、この開発はおかしいと吉田家に訴え、また江戸町奉行所にも訴えました。

その後、藤左衛門のグループと村役人グループの争いはどんどんひどくなって、慶応4年8月9日、藤左衛門のグループは武器をもって村役人の家をおそって打ちこわしてしまいました。

〜分かったこと〜
この事件は、百姓たちが、村役人のやりかたに不満をもって、武器をもってその家を襲ったという有名な大事件だそうです。

犢橋村のように、村が何人かの違う領主に支配されている村では、百姓たちもそれぞれのグループに分かれていたそうです。でも、この事件では、藤左衛門のグループには、吉田家と小栗家の百姓が仲間になっています。それが面 白いと思いました。

・まとめ

犢橋村は御成り街道が通っていたので、調べた村の中では人の数も馬の数も、比べ物にならないぐらい多かったです。後で紹介するつもりですが、メインの宮野木村よりも長くなってしまいました。

三社神社には巡礼の石碑が60以上も建っていました。でも、宮野木村の地蔵院には10個もありません。それは犢橋村がお金持ちだったからでしょうか。

江戸時代の村人の名前は、とても面白いと思います。灯籠の藤左衛門という人は、打ちこわし事件を起こした、藤左衛門と同じ人かも知れないと思います。世話人なので、村の役員さんだったと思います。

千葉市史で調べた人別帳では、村人に苗字がありません。江戸時代の村人には、苗字はなかったのでしょうか。でも、長福寺の石像には、建てた人の名前で、「町埜」「花島」といった苗字が刻まれています。今も町野さんや、花島さんはこの辺に多い名前です。では、本当は、村人は苗字があったのでしょうか。名前について、もって調べてみたいです。

(神田まどか)

畑中さんから神田まどかさんへ

犢橋村の三社神社の石灯籠の名前から発展して、家族構成まで調べたのは大変だったでしょうね。現在は“核家族”などと言って、家族の人数が少ないですが、昔は多かったのですね。私が子どもの頃(昭和の初期)もまだ家族数は多かったですよ。いつ頃から少なくなったのか、もし調べたら教えてくださいね。

それから、江戸時代の戸籍には三歳未満の幼い子どもは生まれていても記載されていません。幼児の死亡率が高くて本当に育つかどうか判らないからでしょうか。ですから本当は、もっと多人数だと思います。

もう一つ『宗旨人別控帳』には、その人がどんな宗教を信じていて、どこのお寺にお世話になっているのかも書いてあったと思います。この頃は信仰して良い宗教と、信仰してはいけない宗教が決められていて、何を信仰しているか報告しなければならなかったんです。

最後に、石灯籠などに女の人の名前が見つからなかったそうですね。女の人だけで行う行事、例えば安産や子どもの無事な成長を祈る、女性だけで行った旅行の祈念碑などには、女性の名前が見られるときがあります。胸に子どもを抱いた観音様が彫られた石像などを見たら調べてください。個人の名前は彫ってありませんが、犢橋村の旧道北側墓地の入り口にあるお地蔵様は、天明1年(1781)に女の人たちが建てたものですし、十九夜塔は東本郷と新田の女性たちが享和3年(1803)に建てています。

(2003年8月5日 畑中雅子)