
■親子で楽しむ千葉の歴史〜2003年6月〜
今日は『ドロメン』について書きます。 江戸時代の宮野木村の、第3・4回の終わりに、畑中さんから、『ドロメン』のことについても教えていただきました。村のさつまいもなどの産物を江戸に運んだ舟が、帰りにゴミを運んで帰ってきたこと、そのゴミを畑にまいたこと。ドロメンは『江戸時代の子供の遊び道具かもしれない』ということが分かりました。 江戸時代の宮野木村の自由研究は、昔の地図を見ること、昔の村のあった場所を歩くこと、お寺や神社や道端に残っている古いものを良く観察して、図書館で調べることでした。 でも、空き地や畑に、江戸時代のものが落ちているのだとしたら、すごいことだと思います。
『ドロメン』について、教えてくれたのは、お父さんです。お父さんが子供の頃の昭和40年代、宮野木や園生は、今よりももっともっと畑や田や林や空き地が多くて、そういうところで遊んでいると、土でできた小さなものを拾ったそうです。 私がさつきが丘の幼稚園に通っているころ、犢橋の荒地に一緒に行って、お父さんに拾ってもらったことがあります。そして、しばらくドロメンのことはすっかり忘れていました。 2年前のお正月、私は、お父さんと妹と3人で、散歩をしていました。するとお父さんが道端で何かを拾いました。“大黒様だ!”それは、3cmほどの小さな小さな大黒様の人形でした。全然壊れていません。お正月に七福神を拾うなんて縁起がいいと、お父さんは大喜びでした。その大黒様は、土の焼き物で、どこも欠けていませんが、古そうです。それはドロメンでした。私は、久しぶりにドロメンに会いました。
お父さんは、ドロメンといいますが、畑中さんからいただいたお手紙では『ドチロン』と呼んでいたと書いてありましたし、後でお話しますが、加曾利貝塚博物館の方は『ドロメンコ』と呼んでいました。 お父さんに“いつ誰からドロメンという呼び名を教わったの?”と聞いても“覚えていない”そうです。これも後で詳しく書きますが、加曾利貝塚博物館の方に紹介していただいた本では『泥面子』と書いてありました。
私は、昔お父さんと拾った『泥面子』を押入れの中から探し出しました。それから今回江戸時代のことを自由研究するので、犢橋の畑の畑地や空き地を歩きました。特に、今造成していてもうすぐなくなってしまう畑などを中心に歩いてみました。そして、また『泥面子』を拾いました。 阿部さんのお勧めで、この前加曽利貝塚博物館に行きました。今回の自由研究で拾ったいろいろなものを、研究している専門の人に見ていただけることになりました。そして副館長の村田六郎太さんに『泥面子』をお見せして、お話を伺いました。
「泥面子は、江戸時代の江戸の下町の子供たちのおもちゃでした。犢橋などの村々が、出来た野菜など農産物を、検見川浜の湊から出る舟にのせて、江戸に運んでいきました。帰りの舟をカラにしないで、江戸の町で出るゴミを積んで持って帰りました。ゴミは畑の肥やしにつかいます。畑にまかれたこやしは形がなくなりますが、焼き物の泥面子は残ったのです。江戸の町には、泥面子を専門につくる職人がいました。」 そして書庫から本を探してくださいました。その場で本を見せていただきました。本は『図説江戸考古学研究事典』という本です(柏書房/編者:江戸遺跡研究会/2001年4月25日発行)。その本には、詳しく書いてありますが(224ページ/、江戸の生活文化/4・遊・玩具 泥面子)、その大体の内容を紹介します。 泥面子は、平安時代の意銭(ぜにうち)を起源とし、江戸時代に『穴一』という遊戯に変化したといわれています。 文政13年(1830)の書物には、 「子供の遊び・めんがたは、瓦の型から作る。昔は指にツバでくっつけるお面のようなものでしたが、今は変わって、銭のように模様をいろいろつけた面打(めんちょう)となりました」 とあります。 面打は本来本物の銭を使った大人の遊びでしたが、貝などを使って子供が遊ぶようになって、やがて面打が作られるようになったそうです。しかし、天保3年(1832)には、禁止令がでたそうです。 その理由は 「土で面形などを作って、色を塗って、子供達が集まって、投げたりして、当てた人の勝ちにして勝負事をしている。いくら遊びでも、勝負には変わりなく、子供のためにならないから」 です。 泥面子の作り方は、型によるもので、型には木型と土型があります。模様は、歌舞伎役者の家紋や火消しの纏、将棋、漢字(人名・地名)などいろいろあります。19世紀はじめごろから急に増えて、19世紀中期以降急に減りました。これは、ちょうど今のカードゲームのようなものだと思いました。学校でも、男の子たちがあまりやりすぎると、先生に取り上げられたり、禁止されたりします。江戸時代の子供も、今の私たちと同じような遊びをしていたんだと思いました。 そして、「泥面子」を手のひらにのせてみます。200年前の江戸時代のこどもがあそんだおもちゃです。どんな名前のどんな顔のこどもが遊んだのか、想像してみると、楽しいです。
『泥面子』の形を紹介します。『泥面子』を形で分けると、三つの種類に分けられます。 1:碁石形 碁石のような形をしています。 直径1.5cm〜2.0cmの大きさです。昔の人は、これに色を塗って、本当に碁石につかったのではないかと思います。この種類の『泥面子』が、三つの中で一番沢山見つかります。模様がないので、作った昔の人の親指の指紋がくっきり残っています。
2:人形形 七福神や、鬼の顔、魚、花などそのままの姿が形になっています。珍しくてめったにありません。なかには少し色が残っているものがあります。『泥面子』は昔は色が付けられていたようです。
3:丸形 直径2.2cmほどの円筒を、厚さ1センチごとに輪切りしたような形の『泥面子』です。その表面には、いろいろな模様が描かれています。これは、円盤型ほどではありませんが、けっこうたくさん拾うことができます。だいたい2.0cm〜2.5cmのものが多いです。たまに1.5cmの小型のものもあります。
村田副館長に、もう1冊本を見せていただきました。東京の汐留遺跡の発掘資料です(『汐留遺跡 第一分冊 旧塩留貨物駅跡地内の調査』/編集:R東京都教育文化財団/発行:東京都埋蔵文化財センター/1997年3月31日)。 汐留は東京の真ん中です。江戸時代の汐留には畑はなく、武家屋敷などがあったところだそうです。ここから、たくさんのドロメンが発見されたそうです。この本には、たくさんのドロメンの拓本がのっていますが、なんと!そのうちのいくつかは、私が犢橋で拾ったものと全く同じです。本には『泥面子』は型から抜いて作ったと書いてありました。 本にのっている『泥面子』と私の『泥面子』は、同じ型からできた兄弟です。わたしはとてもわくわくしてきました。私がお父さんと拾った『泥面子』を、村田副館長に見せていただいた本の文様の分類のように分けてみたいと思います。それは次回に紹介します。 加曽利貝塚博物館の村田副館長は、この『泥面子』について“もっともっと自分で調べてみてください、そして調べたことをまた持ってきてください”とおっしゃいました。
ドロメンが拾えた宮野木・犢橋の畑の畑地や空き地は、この前の造成で住宅になりました。 まだ拾える畑はありますが、必ず農家の方に断ってから畑を見せていただきます。勝手に畑に入ったりしないようにしています。特に作物が植えてある時期は、絶対に畑には入れません。 |