
■親子で楽しむ千葉の歴史〜2003年5月〜
今日は、徳川将軍と関係の深いお堂のことと、昔はあったのに今はなくなってしまったお寺や神社のことについて書きます。
谷津をわたって緑が丘中学の前の道にもどって、その道の左側を歩いて行くと10分くらいで道の右手に神社があります。門(鳥居)には、「馬頭観世音奥の院」と書いてあります。
お父さんに聞くと、お父さんが子どもの頃の昭和40年代、この神社の前の道は緑が丘中も北高もなくて、暗くて細い林の中の道でそれは荒れ果てていて、木でできた鳥居が何十本もくぐっていくと、古いお堂が建っていたそうです。
本堂のうしろに、由緒をかいた石碑があります。それには、 「奥之院の由来は、元和六年、徳川家光が狩猟の帰途のおり、愛馬を失い、その霊を弔った社と伝えられている」 と書いてあります。元和6年とは1620年です。さっきの公民館で借りた本「東金御成街道」には、13回あった将軍鷹狩のうち、第8回目の鷹狩と書いてあります。徳川家光が犢橋村に来ていたなんてびっくりしました。
お堂の周りには、三社神社の前にあったのと同じ馬頭観音が10個ぐらいあります。江戸時代の古いものは 文政十一年十月二日(1828) だけであとは、 明治 二年 八月 □日(1869) 明治二十二年十一月 九日(1889) 明治三十三年 九月十六日(1900) 明治四十二年 六月十八日(1909) 大正 六年十二月十八日(1917) 大正 十年 四月 吉日(1921) 大正 十年 九月 吉日(1921) 昭和 七年 一月十八日(1932) と、皆明治時代・大正時代のものでした。その中の昭和57年のもので、大きな石碑の馬頭観音は、 エドアサヒ、ナスコホマレ、シナチリ、エドノボル、エドエーカン、エドコマチ、エドラック、メグロサカエ、エドマサルなどと競馬レースの馬の名前がたくさん書かれています。
お堂の向かって右側には壁があって、そこにはたくさんの石の板が飾ってあります。その石の板には、馬の姿が彫られています。これは「絵馬」というものだそうです。 お父さんに聞くと、昔この神社が荒れていたときは、この絵馬はお堂の脇にただ積まれて、ほこりや泥をかぶっていたそうです。いまはきれいに大切にされています。ここは、「由緒」の家光の馬がはじまりなので、馬の神様仏様がたくさんまつってあるところだと言うことが分かりました。 あと、前にまとめた「村の人と馬の数」では、この犢橋村の馬の数は、他の村々にくらべて圧倒的に多いです。その理由は、この村だけが他の村と違って将軍様が往復する「御成街道」の宿場町だったので、旅人用の馬をたくさん飼っていたからということです。 絵馬がいくつあるか、数を数えてみました。すると、全部で146枚もありました。ほとんどの絵馬には元気に走る馬が彫ってあります。そして、この絵馬を収めた人の名前と村の名前も刻んであります。その村の名前は、この村であるコテハシ以外に、他にも宮ノ木や畑などさまざまです。中には横浜と書いてあるものもあります。そこで、どの村がいくつあるか、村ごとに数えてみました。
なにも書いていなかったもの、読めなかったものは37枚ありました。合計146枚です。 一番多いのは、やはり犢橋村でした。長作と畑村も多いです。 本当にいろんな村の名前があります。近くて関係が深い小中台村、宮野木村のものは少なくて、園生村はありません。北の方や御成街道沿いの村は遠い村のものがあります。
いくつかの絵馬の写真をとりました。 そして、お父さんにやり方をならって拓本をとりました。拓本はとても面白いです。馬のすがたは、とても素晴らしいと思いました。墨で絵馬を汚さないように注意して拓本をとりました。
お堂正面に、古い石の額がかかっていました。その右半分には、 明治十年第五月 検見川邨 願主 鈴木惚左衛門 鈴木半兵ヱ 久保田佐左衛門 小高喜田良 鈴木又兵ヱ 久保田助右ヱ門 竹内直次良 石川太右ヱ門 藤代弥右ヱ門 吉田父次良 舟荷主 鈴木傳九良 ケミ川 石忠
ここは、神社なのか、お寺なのか、はっきりしません。鳥居があるので、神社に見えますが、観音堂の奥の院ということはお寺でしょうか。お堂の中にはお地蔵様がいますから、やはりお寺のようです。お父さんに聞くと、明治時代より昔は、いまほどお寺と神社の区別ははっきりしていなかったそうです。
江戸時代の村の跡を歩いていると、昔の地図にはのっていても、今はないお寺や神社があります。それはなぜでしょうか? 江戸時代の犢橋村には、長福寺と神照寺の二つのお寺がありました。昔のいい伝えでは、昔神照寺には大きな松の木があって、江戸湾をわたって検見川の湊に入る舟の目印になっていたそうです。このお寺は、江戸時代の地図にはでていますが、今の地図にはでていません。でも、何か残っているかもしれないので、その場所に行って見ました。 お父さんと犢橋村の長福寺に行って、その後神照寺を探すことにしました。長福寺の前の道を北に進む道沿いや、その裏山などに登って探し回ったのですが、なにも見つかりませんでした。家に帰って、もう一度江戸時代の地図をよく見て見ると、もしかしたら北に続く道沿いではなく、南の田に面した道沿いにあったのかも知れないと思いました。 そこで、もう一度犢橋村に行ってみました。今度は南の田に面した道を歩きました。しばらく歩いても何もないので、もう何も残っていないのかも知れないと思いました。すると家と家の間に細い土の道がありました。その道は、上り坂になっていて、その先は林で、いかにもお寺がありそうです。そこでみつけたものをまとめます。
その細い道を進んでいくと、右手に とても古い江戸時代のお地蔵さんが立っていました。 その少し先には、江戸時代のお墓が8つほどあります。その中には、 空賢法師 不生位 享保二十年(1735) 宥慶法師 不生位 元文 二年(1737) 法師性恵 文政 九年(1826) と刻んであるものがあります。法師とはお坊さんのことだとすると、この先にお寺の跡があるかもしれないと思いました。
そして、坂を登りきったところは、畑が開けています。そして、その畑の中に、こんもりと大きな木に囲まれた場所があって、その中に小さなお堂が立っていました。 そのお堂は、神社のような姿をしています。そのそばには、古いのぼりが倒れています。それには『妙見神社』と書いてあったので、これは神社で神照寺ではないのかも知れないと思いました。
それでも、ここは神照寺の跡かもしれないと思って何かないか探していると、笹の葉のかげに20センチ四方くらいの四角い石の板みたいなものがありました。土を払いのけて、よく見てみると、
このお堂の周りは、畑になっています。多分昔のお堂はこのあたりにあったと思います。そこには古いお茶碗のような焼物のかけらが落ちています。そのほとんどは白くて、青い模様が描かれています。拾って洗ってみるととても古そうです。もしかしたら江戸時代、昔の神照寺で使っていたお茶碗や食器なのかもしれないと思います。 しかし、そのような古い磁器とは別に、そこには縄の跡が沢山ついているとても古そうな素焼きのかけらも落ちていました。お父さんに聞くと、これは縄文時代の土器です。神照寺のあったところは、縄文時代から人が住んでいた場所のようです。
看板などは何もないのですが、ここは昔神照寺があった所に間違いないと思いました。 その理由は、法師のお墓が残っていること、薬師堂の額や古い祠があること、そして江戸時代の地図の場所とだいたいあっているからです。神照寺の後を江戸時代の地図で見つけることができてとても嬉しかったです。
お父さんが子供のころ、園生村にもう一つ神社があったそうです。その場所は、バス停の裏手、新聞店のあるあたりで、昔は木が茂る小高い丘だったそうです。その繁みの中に、小さな神社がありました。今はもうなにもありませんが、明治時代の地図に、『字西街道』とあり、そこに『七社神社』とでていますから、その神社のようです。 ここに神社があったことは、もう全然わかりません。犢橋村の神照寺もなくなっていましたが、後には小さなお堂があって、いろいろなものも残っていて、ここが昔お寺だったことが分かりました。でも、ここには何もありません。神社は、普通の家とちがって 何時までも残るタイムマシーン のようですが、場合によっては跡形もなくなってしまうのです。
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