■親子で楽しむ千葉の歴史〜2003年4月〜



江戸時代の宮野木村・3

みなさんこんにちは。 今日は、前回に続いて村を歩いて見ます。今回は巡礼の記念碑と弘法大師様についてまとめてみました。

巡礼の記念碑

昔の村人たちは、遠くの神社やお寺まで巡礼(お参り)しました。そのお参りを記念して立てられたたくさんの石碑が、今回歩いた江戸の村の、いろいろな神社やお寺に残っています。その記念碑があったところと、あった記念碑は次の表の通りです。

あった所
村の名前
あった巡礼記念碑
三社神社
犢橋村
出羽三山/22、秩父三十三箇所/20、伊勢神宮/19、
富士山/3、金比羅宮/1、御獄山/1
長福寺
犢橋村
坂東三十三箇所/1
地蔵院
宮野木村
秩父三十三箇所/8
甲大神
宮野木村
出羽三山
熊野神社
小中台村
出羽三山

昔の村人たちは、遠くの神社やお寺まで巡礼(お参り)しました。そのお参りを記念して立てられたたくさんの石碑が、今回歩いた江戸の村の、いろいろな神社やお寺に残っています。その記念碑があったところと、あった記念碑は上の表の通りです。

昔の人は、車も電車もないのに、歩いて行ったなんてびっくりしました。特に犢橋村の三社神社には本当にたくさんの石碑があります。残っている石碑は、明治時代以後のものが多くて、江戸時代のものは少ないです。

でも、神社に書いてある言い伝えでは、村の人たちは江戸時代よりも前からお参りしていたそうです。右上の拓本は出羽三山の拓本です。三つの山は山形県にあります。一番多くて22個もありました。

他にも、伊勢神宮や秩父三十三箇所というものもありました。富士山に登ったという記念碑もあります。それには「登山大願成就」と彫ってありました。

でも「由緒」に書いてあった鎌倉八幡神宮の記念碑は一つもありませんでした。



長福寺

長福寺

今月号を作る前に長福寺を訪ねてお話を伺おうと思い、訪ねてみたらお寺の方が「長福寺の沿革」という長福寺の歴史などについて書いてある本をくださいました。本の中には次のようなことが書いてありました。

〜長福寺からもらった本の内容〜

正確な記録については保存された文献はないが、西暦1580年、今から約400年前の桃山時代にすでに現存して居たということは、古い過去帳墓石などで散見されて居るのであります。その後幾多の変遷を経て、現存の本堂は無住職のため、明治の初め頃犢橋村小学校の校舎として代用され、60年後の昭和2年頃まで小学校教育の場として犢橋村民の教育の中心であった。住職としては、現住職が26世となっておるのであります。

弘法大師

お参りの記念碑は神社だけではなく、お寺にもあります。犢橋村の長福寺、園生村の金蔵院、そして小中台村のなど、江戸時代の古いお寺に入ると、門のすぐそばに笠をかぶった旅姿のお坊さんの石像が立っていました。

このお坊さんは弘法大師様(空海)で、平安時代に遣唐使として中国に渡り日本に密教を伝えた人で、高野山(真言宗)をひらきました。空海は旅と巡礼を続けたお坊さんとしても有名です。長福寺、金蔵院、日永寺、そして宮野木村の地蔵院はみんな真言宗のお寺です。江戸時代の頃この近くでは真言宗が盛んだったのでしょうか。

四国八十八ヶ所の像

長福寺には、江戸時代の古いお墓がたくさん残っていますが、そのたくさんのお墓の中で少し変わった像がいくつかありました(写 真全14枚)。

それは、お坊さんが座っていて、お寺の名前と番号が書いてあるのです。他のお墓は観音様の像が彫ってあって戒名がありますので、全然違います。このお坊さんは多分弘法大師です。なぜそう思うかというと、さっきの毎日新聞の広告に出ている弘法大師とまったく同じ格好だからです。持っているものも同じです。お寺の名前は、弘法大師様が四国に開いた八十八ヶ所のお寺を表したものだそうです。昔は多分八十八個あったのでしょうが、数えてみたら14ぐらいしか残っていません。立っている場所も、お墓に混ざってばらばらです。しかも、その殆どは首もなくなっています。残っているものは全部写 真にとって順番に並べてみました。


第 二 番 阿州 極楽寺写
第 三 番 阿州 全泉寺写
第二十七番 土州 神峰寺写
 第三十二番 土州 禅師峰寺写
第三十四番 土州 種間寺写
第三十六番 土州 青龍寺写
第三十九番 土州 延光寺写
第 四十番 豫州 薬師院写
第四十一番 豫州 稲荷山写
第五十五番 豫州 金剛院写
第 六十番 豫州 横峰寺写
第八十三番 讃州 大宝院写

字が読めるのはこの12個だけで、後の2つは字が消えていて読めません。

 

三社神社に立っていた記念碑は、昔の人が伊勢や秩父や東北に、何度も巡礼に行った記念です。でも、四国に行ったという記念碑は一つもありませんでした。きっと、お参りを大切にする昔の人も、四国はとても遠くお寺の数も多く、お金もかかったので、普通 の人はお参りできなかったのだと思います。

その代わりに、四国にあるお寺の名を八十八個刻んで、これを拝んでお参りしたのだと思います。どれも相当古いものらしく傷んでいます。立てた年月はありませんが、立てた人の名前がひとつずつ

 ■花島政右ヱ門
 ■町埜平右ヱ門

鶴岡伊之助

 小島源右ヱ門

と刻んであります。多分このお寺ができた頃、江戸時代の初め頃に88個作られて、きちんと順番にきれいに並んでいたのだと思います。
 ■第三十四番 土州 種間寺写

の像は、7月に最初に見たときはなんでもありませんでしたが、写真を撮りに行った8月29日には、像が二つに砕けて、胸から上が地面に落ちていました。台風で壊れてしまったのかも知れません。こうしてだんだん少なくなって、今は14個しかないのだと思いました。

畑中さんからのコメント

今月の信仰に関する記念碑や、石造物のお話も楽しく読みました。とても遠いところまで歩いて参詣しているので驚きですね。遠いところに参詣するには、たくさんの旅費が必要ですね。そこで、○○講といって現在の「積立貯金」のようにお金を出しあって費用を作りました。お金は全員が出しますが、今年は誰と誰が行く……と決められた人たちが参詣します。

記念碑にはたいてい参詣した年月と「同行○人」と一緒に参詣した人数が刻まれています。ずいぶん大人数で驚かされることもありますよ。長い旅ですから危険なこともありますし、病気になる人も出ます。勝手な行動は出来ませんし、苦しいときは助け合って頑張りますから、みんな仲良くなり協調性も養われ、「出羽三山参りに一緒に行った人は、一生兄弟と同じようなお付き合いをする」と決められていた村もあります。

また、お参りに行った人と行かなかった人はお葬式のやり方が違う村もありました。信仰、行楽、修行など多目的の旅だったのでしょう。


神田まどかさんから畑中さんへ

この前はお手紙ありがとうございました。手紙に書いてあった畑村のゴミのことですが、いつも犢橋村の畑に行くと、ドロメンという不思議な小さい焼き物が拾えるので、もしかすると畑中さんが教えてくださったことと関係あるのかもしれません。畑中さんはドロメンのことを何かご存じですか?

このドロメンについては阿部さんと相談して、もしかしたら最後に入れるかもしれないのでそしたら畑中さんが教えてくださったことも参考にしたいです。

畑中さんの書いている「親子で楽しむ千葉の歴史」とても分かりやすく面白いので、毎月楽しみにしていました。また色々教えてください。今後ともよろしくお願いします。

(2003年3月16日 神田まどか)


畑中さんから神田まどかさんへ

まどかちゃんこんにちは。
お手紙とても嬉しく読みました。いつもこんなに素晴らしい小学生がいるなんて日本の未来は安心……何て思っているのですよ。

さて、最初に一つ訂正。畑村のゴミのこと、とありますが犢橋村の記録として書いていますので、まさしくドロメンの落ちている林のことです。ドロメン、ドロメンコ、などと呼ばれているようですが、私が子どもの頃の町ではドチロンと呼んでいました。

子どもの遊び道具(江戸で流行した)と聞いていますが、どのように使ったのかは知りません。江戸のゴミを持ち帰って肥料に使ったことと関係があるのかもしれないと聞いたことがありますが、その分布と農業の肥料に関しての研究があるかどうか分かりません。今多忙で調査できなくてごめんなさいね。

いつか、まどかちゃんが研究して分かったら是非教えてください。期待しています。

(2003年3月24日 畑中雅子)