■親子で楽しむ千葉の歴史〜2003年3月〜



江戸時代の宮野木村・2

みなさんこんにちは。神田まどかです。今日は、昔の村々の産業や人口について調べたことについて説明した後、実際に村をあるいてみます。

1・昔の村の産業と実績(図書館でしらべたこと)

図書館で、これから歩く江戸時代の各村の産業と人口をしらべて見ました。昔のことが書いてある本は「検見川・馬加組合村々地頭姓名其外書上帳安政2年(1855)」です。千葉市史という本にのっています。

自由研究で調べる村

-
産業
人口
農業
漁業
商業
家の数
人の人数
馬の数
米(石)
その他
犢橋村
734
薩摩芋まき
-
旅籠1軒
茶屋3軒
質屋5軒
125
388
371
759
61
長沼新田
593
薩摩芋まき
-
-
64
166
169
335
10
小中台村
472
薩摩芋まき
-
-
55
177
159
336
14
園生村
393
薩摩芋まき
-
-
51
178
175
353
12
宮野木村
377
薩摩芋まき
-
-
44
135
138
273
11

図書館で、これから歩く江戸時代の各村の産業と人口をしらべて見ました。昔のことが書いてある本は「検見川・馬加組合村々地頭姓名其外書上帳安政2年(1855)」です。千葉市史という本にのっています。

自由研究で調べる村

今JRの駅がある場所にあった昔の村

-
産業
人口
農業
漁業
商業
家の数
人の人数
馬の数
米(石)
その他
検見川村
600
薩摩芋まき
赤貝
船乗
旅籠1軒
413
1227
1127
2354
31
馬加村
(幕張)
593
薩摩芋まき
船乗
旅籠5軒
茶屋5軒
389
1111
1137
2248
48
稲毛村
497
薩摩芋まき
-
浅間神社
154
690
1303
1303
45

自由研究でしらべる宮野木村、園生村、小中台村は米と薩摩芋の農業がほとんどです。家も40から60軒ぐらい、人の数は300人くらいです。

犢橋村だけは御成り街道という街道が通っていたので、旅籠(はたご)という旅館もあって馬もたくさんいました。今JRの幕張駅、新検見川駅、稲毛駅がある村も同じ資料にでていたのでくらべてみると、家の数や人数は多いです。でも稲毛はそれほど大きくありません。検見川や幕張の方が、漁業やものをはこぶ港があったので、大きい村だったのです。

2・昔の村々で起きた事件

千葉市史という本には、昔の村々で起きたいろいろな事件について、古文書(昔から伝わる本)を紹介しています。これから出かける村で起きた、面白い事件をいつくか紹介します。

海辺の村々との争い 寛政四年(1792)宮野木村の名主は、犢橋村、小中台村、長沼新田、そのほかの6つの村々と一緒に、園生村の名主に出した手紙が残っています。その手紙には、宮野木村、犢橋村、小中台村、長沼新田など10ヶ村の山林の中に「海辺の村々の人たち」が勝手に入り込んで松の木を切ったり、積んでおいたまきを勝手に黙って持っていったりしてしまうので「海辺の村々の人たち」に止めてくださいと申し入れたと書いてあります。そして、その後もし「海辺の村々の人たち」が言う事を聞かないで入り込んできたり、注意したことで怒って仕返しをしてきたりしたときは、園生村が中心になって対応してほしい、とも書いてあります。

わかったこと
「海辺の村々の人たち」とはどこの村々でしょうか。名前は古い文書に書いてありませんが、宮野木村・小中台村・園生村に近い海岸にある村は、たぶん稲毛村・馬加(まくはり)村、検見川村だと思います。園生村の名主に他の10ヶ村の名主がまとまって困ったことの相談をしているということは、園生村はこういう村々の中心だったと思います。

犢橋村と畑村の水争い畑村は、犢橋村の西隣の村です。いまのさつきが丘から畑町のあたりにありました。畑村は高い場所にあるので水が不足していました。畑村は、犢橋村から余りの水をひいて、そのかわり料金として犢橋村に米を渡していました。宝暦九年(1759)二つの村の間で水争いがおきて、その後も何回も何回も水争いがおきました。

わかったこと
水の上流にある犢橋村の立場は強くて、下流の畑村の立場は弱くて、いつも困っている様子がわかりました。

3・昔の村々を歩く

これから、最初に地図で調べた昔の村々を実際に歩いてみます。最初に犢橋村に行ってみました。

二十三夜塔と道しるべ

私の住んでいる宮野木町から、しずか台を通って緑ヶ丘中学にでたあたりが、昔の地図に出ている宮野木村のはずれで、そこから先が犢橋村です。緑ヶ丘中学の脇の道を抜けると、トラックがいっぱいとまっている場所がありますが、ここは3年ぐらい前まではカラス瓜がたくさんとれる林でした。その先は水田です。この、入り江のような低地を谷津というのだそうです。この谷津を挟んで神社とお寺が向き合っています。向かって右側が神社の三社神社です。三社神社の前に、とても古そうな石の塔が4つ並んでいたので、よく見て見ました。
一番左はお墓で、

右面に……天保十五年五月九日(1844)
正面に……嘉永四年十月二十四日蓮宝童子(1851)
      嘉永五年十月二十五日暁夢童子(1852)
      弘化三年八月二十五日泡水童子(1846)
左面に……俗名 米吉

と書いてあります。こんなに古いお墓が道端に建っていて驚きました。童子とは、子供のお墓だったのでしょうか。

馬頭観音と刻んであるのが、左から二番目と一番右で、それぞれ

大正六年三月吉日(1917)
明治四年五月吉日(1871)

と、建てた日が刻んであります。馬頭観音とは馬に関係の深い観音様で、同じ犢橋村の駒形観世音奥の院(元観音堂)にたくさんありました。

右から二つ目の石塔は、廿三夜塔と書いてあります。廿三とは、今の漢字で二十三だそうですが、なんのことかお父さんに聞いてもわかりません。建てた年月日も刻んでありませんが、この4つの中では一番古そうに見えました。この4つの塔のうち、大きい方の馬頭観音と廿三夜塔は、旅人に道の方向を示す道しるべになっています。



廿三夜塔


右面
右 さくら道



左面
左 けみ川 ちば 道


馬頭観音
右面/けみ川方面
左面/みやのぎ,ちば方面
正面/こてはし,
うなや方面

などと書いてあります。昔の人はこれを見て旅をしたのだと思います。
ただ、二つとも同じ場所にあるのに検見川へ行く方向が逆なので、もしかしたら昔は別の場所にあったものなのかも知れないと思いま した。

三社神社について

三社神社は外から見るとこんもりした山のよう になっています。石段を登って境内に入ると鳥居があって、その先に古い灯篭と狛犬があります。右手の林の中には“伊勢神宮”“秩父三十三ヶ所”“出羽三山”などの記念碑が何十個も建っています。まっすぐ行くと本殿があってその横に『由緒』と書いてある看板がありました。由緒というのは歴史だそうです。難しい文章で読めなかったのでお父さんに読んでもらいました。

「言い伝えでは、この神社ができた時代はいつか分からないが、とても古くから土地の神様を祀っていた。この村の古くからの習慣で、男の子は15歳になると、必ず伊勢神宮と鎌倉の八幡宮にお参りすることになっていたが、戦が続く時代になって、遠くに安全に旅することが難しくなったので、伊勢と鎌倉の両神社から魂を分けてもらって、地元の神様と合わせて三社の神様を奉ったことから、三社神社というようになった」と書いてあります。

長福寺について

三社神社から、田んぼの中を渡る道の向こう側に長福寺の大きな屋根が見えます。このお寺も江戸時代の地図にのっています。ここには寺子屋があって、子供達が勉強していたそうです。このお寺には、とても古い江戸時代のお墓がたくさん大切に残されていました。その中には、寛文六年(1666)や元禄時代のものもあります。340年前に暮らしていた村の人たちのお墓です。

このお寺でみつけたものは、次回に詳しく書きます。

〜畑中さんから神田まどかさんへ〜

神田まどかちゃんの研究はすごいですね。図書館で調べ、実際現地で自分で目で見て考え、写真などで記録する。私もたくさんのことを教えてもらっています。これから先どんな驚きがあるかワクワクして期待しています。

まどかちゃんの調査に関連して天保14年(1843)の記録で犢橋村の暮らしについて少し書いてみます。

もちろん田んぼでは稲が作られていました。畑では大麦、小麦、菜種、あわ、ひえ。さつまいもなどを作りました。特にさつまいもは江戸に出荷されて重要な収入源になりました。そして江戸から帰るときには江戸の庶民の掃き溜め(はきだめ・ゴミ捨て場)に溜まったゴミを買って帰り、畑の肥料として使いました。昔の人はリサイクルなんて言葉を知らなくても、すご〜い「リサイクル」をしていたんですね。

農作業が出来ない季節には男は山で蒔きを作ったり、松の葉を集めて検見川村へ運びました。女は塩を入れる俵(たわら・わらで作った容器)を編んで、行徳へ売って収入を得ていました。行徳ではずいぶん古い時代から塩を作っていました。塩は塩を煮詰めて作るのでたくさんの燃料を必要とします。まどかちゃんが見つけた海辺の村々との争いは、こんなところに原因が潜んでいたのかもしれません。