■親子で楽しむ千葉の歴史〜2003年1月〜
江戸時代はみなみおゆみむらと呼ばれていました。小字(こあざ・地名)に古城、城出下、東堀、城ノ台などがあるので昔はお城の一部であったことがわかります。村の政治は天正18年(1590)から西郷家員が行い、元和6年(1620)に徳川幕府が直接行うようになりました。寛永4年(1627)に生実藩領となり、それから幕末まで変わらず生実藩が政治を行いました。
村の規模は、寛永5年南小弓之郷(おゆみのごう)という呼び方で、田から米105トン、畑から米に換算して42トンぐらい取れる村と評価されていました。
現在南生実の中の地名の一つである大百池(おおどいけ)と百亀喜(どうみき)は昔はそれぞれ独立した村でした。慶安5年(1652)の年貢割付状(納税命令書)に「大百池村」と書かれていて、この頃大百池は独立した村として扱われていたことがわかります。同状によると、生実藩領で広さは田2.2ヘクタール余、畑2.5ヘクタール余、屋敷2.7アール余で年貢は米約1トンでした。
以前は田が6.2ヘクタールぐらいあったのですが、4ヘクタールぐらいの田が毎年作物が取れない土地であるから税の対象にしません「不作捨ル」と書かれています。更に延宝2年(1674)には2ヘクタール余あった上等の田がすべてあまり取れない田に評価が変わり、年貢は0.6トンぐらいに減少しています。
年々状況が悪くなって村が小規模になっているようですね。そのせいか元禄8年(1695)頃から南生実村と合併して扱われたらしく、納税命令書から村という文字がなくなりました。そして宝永7年(1710)には「南大弓村之内大百池新田」と書かれていて、南生実村の内の土地と明確になっています。
このことは百亀喜(どうみき)についても同じです。寛永13年(1636)には7名の農民が総面
積19.8ヘクタールほどを所有して百亀喜村として存在していましたが、元禄16年(1703)の文書には「南大弓村之内」と書かれて面積、田13.6ヘクタールほど、畑6.4ヘクタール、屋敷1アールほど、税米9トンぐらいが南生実に組み込まれています。
延享2年(1745)の古文書によって南生実村の規模を見ると、すべて米に換算して本村は119トン余、百亀喜は27トン余、大百池は6トン余、新しく開発された田畑2トン余取れると評価されています。
では面積はどのくらいかというと、天保9年(1838)田69.6ヘクタールほど、畑31.1ヘクタールほど、屋敷2ヘクタールほどでした。
農業用水の問題は、雨と川や池の水しか利用できなかった昔は大変でした。元禄13年(1700)田畑を潤す泉谷(いずみやつ)の水利用をめぐって、上総国古市場村から訴えられたり、その後下郷(谷津、駒崎、苅田子)とも争いました。
泉谷用水は南生実村が利用する権利を持っていましたが、従来北生実村も慣行的に利用していました。しかし文化8年(1811)、「今年は水不足なので、北生実村へ分けてやるのはやめる。」と言われたので裁判となりました。北生実村は「元禄時代に海に付いていない南生実に、田畑の肥やしであるきさご取りの入会権を確保してやったじゃないか。だから両村は兄弟同様の村なのだよ。それにもう一つの草刈堰から南生実へ送る水が順調に流れるように世話をする仕事も手伝っているんだから水を分けてください。」と主張しました。話し合いの結果は3昼夜の間だけ北生実に水を送ってやることで話がまとまりました。
北生実、南生実、浜野、曽我野、泉水村は古い時代から五郷組合村として大きな問題は一緒に解決しましたので助郷の経緯については北生実村を読んでください。
南生実村だけで文政8年(1825)1年間に、浜野村へ人足471人と馬75匹、曽我野村へ人足138人と馬24匹が助郷に行った記録が残っています。次のような家数と人数の村でこんなに出かけていかなければならないのですから、助郷の負担が大きかったことがよく分かりますね。
明和9年(1772)の家数は81軒(名主組頭10、本百姓43、水呑百姓25、神主1、彌陀堂1、寺1)。安永3年(1774)の家数84軒(男162人、女102人、奉公10人)。天保14年の家数78家余、馬30匹余。
幕末になるほどど、この村も生活が貧しくなったのですが、南生実村は文化13年(1816)村の大改革をしました。まず北生実村の割元名主篠崎弥兵衛から300両のお金を出してもらって、借金したためよその村の人の所有地になってしまっている田畑を買い戻して、一生懸命農業に励みました。
それから永代取極議定書(えいたいとりきめぎじょうしょ)という村の法律を決めました。村全体のためのお金の使い方や村役人の心得などを明確にしたのです。
文政9年(1826)、この村の名主(村の一番偉い役人)は周辺の9つの村から「村の役人を辞めろ」と要求されました。そこで村人全員と神社や寺は「そんな必要はない。名主さんは立派な人だ。」と主張して闘いました。でも、天保6年(1835)には、同じ名主を村の人が追求する騒ぎが起こり「こんな悪いことをしています。」と38もの罪を書き上げた書類が殿様に出されました。結果は裁判ではなく話し合いで決まりました。名主は「宿預け」という処罰を受け、この騒ぎを起こした指導者2名は「生実藩の土地から出て行きなさい。」と追放されてしまいました。でも、19年後の弘化2年(1845)には村に帰ってくることを許されて村の戸籍に入れてもらえました。
飢饉などで苦しいのは、北生実村と同じですから、天保9年組頭の太十郎が蔵に、飢饉の時に備えて、食料を貯めておくことを引き受けて非常時に備えています。
本郷に八剣神社があります。神楽が伝承されていて、千葉市指定の無形文化財です。青面金剛が正徳3年(1713)に手水石は寛政6年(1794)と文政11年(1828)に造られています。
大百池(おおどいけ)の脇には馬頭観音が嘉永7年(1854)に造られてものを初めとして10基くらいあります。明治31年のものは「こちらへゆくと千葉寺ですよ」と道しるべになっています。
また、青面金剛像を刻んだものも「左は千葉寺道 右は笠森道ですよ 南生実村の馬を所有している者が建てました」と彫っています。南光山光照寺は明治期に火災に遭いました。寛文元年(1661)に造られたお地蔵様があります。
〜子どもからのお便り〜1
名主さんが訴えられたんだけど、さいばんじゃなく話し合いでかいけつして良かったと思いました。この騒ぎを起こした指導者2名は生実藩から出ていけと言われて、少しかわいそうだなぁと思いました。
(秋元 小5) |
〜子どもからのお便り〜2
この村の名主はいい村にしようとがんばったのに、9つの村から役人をやめろなんて言われてかわいそうでした。
(安富 小5) |
〜子どもからのお便り〜3
政治は徳川幕府がやっているなんて驚いた!
今までは「水不足」なんて信じられなくって、しかも水には余裕?もあるのに昔は農業用水が足りなく、「水不足」なんてもっと信じられなかった!
昔のえらい人はみんな悪い人たちばかりだと思っていたけど、中には生活に困っている人たちに、食料を分けてあげたなんて知って、「あぁ昔にはえらい人たちの中でやさしい人もいるんだなぁ」と感心しました。
あと名主さんがまわりの村の人たちに訴えられたことを知って、私は「何で名主さんは何も悪いことをしてなくって、それに村の人たちのためにもがんばったのに、なぜ訴えられたのか」と不思議に思いました。 私がもし、村の人たちだったらそんなことはしないと思うし、また名主さんだったら「反対に村の人たち訴えてやろうかな」とも思います!(そんなことできるわけないと思うけど)
(沼野 小5) |
〜子どもからのお便り〜4
政治は徳川幕府がやっているなんて知らなかった!
「水不足」になってしまって、南生実が3日間だけ北生実にあげたなんて、たったの3日間だけなんてびっくりしました!! 名主さんが300両のお金を出してもらって、土地をかいもどしてくれて一生けんめいにのうぎょうの仕事をはげんだ。ほうりつを決めて、村全体のために使い方や村役人の心得などを明確にした。 そして、名主さんは何も悪いことをしていないのに、ばっせられてしまうなんて、名主さんはすごくかわいそうだなと思いました。
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〜子どもからのお便り〜5
「北生実へ水をあげない!」なんて言われていた北生実。でも「3日間だけ水をわけてやる」と話し合っていたけっか。でもだんだんくらしが苦しくなった。でも、土地を買いもどしていっしょうけんめい名主さんがやってくれて、農業をやっていたと言うので、私は北生実がかわいそうだな〜なんて思います。反対に南に少しいかりくるいましたヨ。
(久保) |
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