■親子で楽しむ千葉の歴史〜2002年11月〜



現千葉市中央区生実町、鎌取町の一部

前回に続いて北生実村の生活や職業などについて書きます。
北生実村と浜野村と村田村の3ヶ村が共同で貝を取ったり、海草を採ったりする海の場所が決まっていました。これを入会の浦(いりあいのうら)といいます。

元禄7年(1694)に浜野村と浦の境が「あっちだ」「いやもっとこっちだ」と争いになりました。また、文政6〜7年にかけて、市原郡八幡村とも争いました。

天保8年(1837)には曽我野と泉水村(現在の今井)の人が勝手に入り、船で貝を採ったため争いになりました。これは、田や畑に入れる肥料の貝“きさご”が欲しかったのです。今後は「さあ!みんなでいっせいに貝を採りましょう」という通 知が回されるまでは、決して採りませんと謝ったので許してやりました。

現代は、外国と海の境をめぐって争いがありますね。昔は、今の町や市くらいが海の境をめぐって争っていたのですよ。

交通や運輸については、宿場といって無料で幕府の役人の荷物を輸送したり、宿泊のお世話をする義務がある村がありました。とてもお金や人手がかかるので、近隣の村々は馬や人をお手伝いに出したり、お金で援助したりさせられます。これを助郷(すけごう)といいます。農業が忙しい季節でも、男の人や馬が出かけなければならないので村の仕事に差し支えることもあります。

浜野、北生実、南生実、小花輪は、文化7年(1810)この助郷負担に苦しみ、拝借米(はいしゃくまい・食料に困ってお金を借りる)の支給を受けました。それから13年後の文政6年(1823)にも、私たち4ヶ村だけでは大変なので、同じ生実藩領の8ヶ村(村田、古市場、上郷、下郷、有吉、遍田、平山、野田村)にも助郷を手伝ってもらいたいと領主にお願いしましたが許可されませんでした。

また、3年後の文政9年、北生実、南生実、浜野、曽我野村は100両づつ出しあって、そのお金を貸し、10%の利息を取り、助郷費用に使うことを決めました。

こんなに知恵を出し合って工夫しても助郷の負担は重くのしかかってきました。天保14年(1843)文政6年と同じく村々に助けて欲しいと頼みました。今度も8か村からの援助は受けられませんでしたが、領主から人や馬を雇うためのお金を10年間金10両づつ支給され、お米ももらえることになりました。

その後も弘化3年(1846)に通行人馬入用手当を支給してくださいと頼んで却下されたり、嘉永5年(1852)に助郷の援助を他の村に頼んだりしています。役人の通 行を世話する仕事は、これほど人々の生活を苦しめたのです。

家数は天保14年に199軒ありました。そのうち102軒が農業以外の仕事を営んでいました。村の家の半分以上が本来の農業以外の仕事を持っていたと言うことです。これは、他の村と比べるともの凄い違いなのですよ。当時の村のほとんどは農家ばかりで、他の職業を兼ねている家は村の中に1軒か2軒、酒屋さんや質屋さんがある位 だったのです。

北生実村ではどんな仕事をしていたかというと、郷宿(普通の宿屋ではなく、主人が裁判所に訴えるための法的手続きをしてくれる宿)2、菓子類小売り16、大工木挽11、屋根屋6、綿打7、糀屋(こうじや)5、鋳物師(鍋や釜を作る)1軒などです。どうです?大都会だったでしょう。

寛政4年(1792)には、当村の大阪屋八郎右衛門が酒造業を始めて、翌年中村重次郎と共に税を納めた記録があります。


古文書から調べた家数、人工などは次の通りです。

家数
寛政12年
175
394
417
51
天保14年
199
70
嘉永5年
149
41

皆さん、農業以外の仕事をしている人が多いことに驚きましたね。でも、渡井の説明が少し足りませんでした。これらの仕事は、農間余業(のうかんよぎょう)といって、農業の合間に行います。基本的には農業をしていることになります。

また、何度も「助郷を援助してください」とお願いしても、援助してくれなかった村も北生実とは別 の宿場へ助郷を行っているのです。「そんなに、あっちもこっちも助郷に行くのは嫌です」ということで、決してケチくさかったんじゃなくてみんな大変だったのです。
天満宮にある狛犬(こまいぬ)。

これは天宝12年(1841)に江戸の本所に店を持っていた伊豆屋八右衛門さんと、神田にお店を持っていた紀伊国屋長兵衛さんがお金を出して造った狛犬です。生実が江戸の商人と関係があった証拠です。

〜子どもからのお便り〜1

勝手にとったからって、あみや船とかを取られてすごくかわいそうだなあと思いました。(人々にとっては)今は米を節約したり、食べれないこともないけれど、昔は返したり貸したりすることもあったんだなぁ。

幕府の役人が通るだけで村の人たちがわざわざお金を出しあうなんて、今では全然考えられないことだし、私にはあまり信じることは出来ません。生実町には家の数が199軒あり、そのうち102軒は農業以外の仕事なんてびっくり!生実町は昔農業ばかりやっていたのかと思っていたけど、私が思っていたのと正反対で昔の生実町は何と大都会だと言うことで、想像はあまりできないくらい驚いたし、新しい大発見を知った!

生実町をもっと信じ、もっと生実町を大切にしなくっちゃ。もっともっと豊かなきれいな町にしなくちゃと強く心に感じました。

(5年 沼野)

〜子どもからのお便り〜2

他の町の海に入ったからって、船とか道具を取られて大変だったなと思いました。あと、村の境であっちだ、いやこっちだとかそれで争いになるなんて、すごく大事な争いだったなんて初めて知りました。

昔、生実は都会だったということも初めて知りました。もっと生実の事を知りたいと思いました。

(5年 安富)

〜子どもからのお便り〜3

なんでそんなくだらんことで争いになるのかなーと一回思ったケド、ふねとかをとられた!ということなのでぜんぜんくだらんとは思いません。

スケゴー制度というのに費用がかかるというので、かわいそうだなーと思います!!ちえを出し合い、お金を出していたのに、だめになってしまいかわいそうでした。

199けんのうち102けんの家が農家ではないしごとをしているなんてびっくり!昔のおゆみは大とかいだなんて、なんかうれしい。97けんは農家だったのが私もすごくびっくり!

(5年 くぼ)


〜子どもからのお便り〜4

ばくふの役人が通るだけでお金を出す、そのお金をわざわざ村の人が出さなきゃいけないなんて、すごいことだと思いました。当時は村のほとんどは農家ばかりだったのに、199けんの中から102けんも農外で仕事をしているなんてすごいなと思いました。

(5年 山口)

〜子どもからのお便り〜5

昔はすごくこまかいきまりがいっぱいあるなあとおもいました。あと、199軒しか家がないなんて少ないなあと思いました。しかもそのうち102軒が農家以外の仕事じゃないとは思っていませんでした。

あと、昔はお菓子屋さんが多くていいなぁと思いました。

(6年 斉藤)

〜子どもからのお便り〜6

昔は争いをしすぎだと思った。浜野、北生実、南生実、小花輪は助郷があって、ただ働きをみんなしていたなんてかわいそうだと思った。昔色々と争っていたんだから、「助郷はもうイヤだー」って言う人はいなかったのだろうか?他の村に助けを求めつづけてているのに、助けてくれないなんてケチくさい!同じ生実藩領なのにこの4つの村だけが苦しい思いをしたなんて……。

文政6年にやっとお米などをもらえるようになったなんて、その前にどうにかならなかったのだろうか、と思いました。

(中2 門間)

〜子どもからのお便り〜7

村・町で海の境目や魚介類盗み取りでの争いが多発している。このようすは現代では全く考えられないので、不思議な感じです。今もそうだったら、村同士の仲で遊べなくなる友だちがいると思うとやっぱり変だなあ。

無料で食べ物をあげたりするのは嫌だ。いくら役人だからってすごく理不尽な話だと思う。千葉市だからといって生実とかは田舎だけど、遠い昔は意外と都会だったんだなぁ。農家ばかりだと思っていたのに199軒中102軒は他の仕事をしているのが一番の驚きだ。

(中2 佐藤)