■親子で楽しむ千葉の歴史〜2002年10月〜
きたおゆみ村と呼ばれ、古文書には北生実、北大弓、北小弓などと書かれています。
昔から栄えていたところで、中世の千葉氏の一族、原家のお城がありました。そのため本城、旧邸、ネコヤ、的場、北二重堀、南二重堀など、昔その場所がどんなところだったかが解る小字(こあざ)という土地の呼び方が残っています。年配の方は知っているかもしれません。
江戸時代には寛政4(1792)年頃の村絵図(県立中央図書館蔵)に、陣屋が旧城の五の丸跡に建築されていて、村は城下町として家並みが整っており、上宿、中宿、下宿、横宿というふうに区割りされています。
村の政治を行った人は、天正18年(1590)西郷家員(さいごういえかず)が千葉郡へ5000石で入ったときの領地に含まれていたと考えられています。延宝7年(1679)の訴状(関谷家文書)によって、元和6年(1620)幕府領であったことが確認できますが、寛永4年(1627)に生実藩領となり、そのまま明治になるまで続きました。
村の規模は、寛永5年田からの収穫が123トンぐらい(818石1斗)、畑からの収穫はお米に換算して66トンぐらい(438石3斗)でした。幕末には、全体で1347石6斗余となっていますから、14トン分程度の新しい耕地が増えていることになります。
では、税(年貢)はどのぐらいだったかというと、元禄8年(1695)1193俵余納めているので、38%ぐらいにあたるようです。税は、収穫が多い年も少ない年も同じ量
を納める(定免ジョウメン)ことになっていたようで、寛永3年〜宝暦4年まで(1750から1754)と、天明6年〜寛政2年(1786〜1790)まで定免であったことが確認できます。
土地の面積はどうでしょうか?寛政12年(1800)当時、他が6ヘクタール(76町5反)、畑が67ヘクタール(67町2反)、屋敷11ヘクタール(10町9反)、新しく作られた畑と屋敷8ヘクタール(8町2反)です。
農業用水は、元和8年(1622)以降、草刈堰用水を利用してきました。寛文7年(1667)の覚(錦織家文書)によると、曽我野村との間に水に関する争いがあり、当村の池の水を曽我野村も利用してきたことが裁判で認められ、池の中に仕切をつけ、東方の池水約1.2ヘクタール分の水を渡し、地代として毎年米750kgを受け取る判決が出て絵図面
が作成されました。
文化8年(1811)にもそれまで慣習的に利用してきた泉谷用水の分水をめぐり南生実村と争いがありました。稲作には豊かな水が必要ですが、現在のように地下水をどんどん汲み上げる技術がない、鉄の管で遠くから運ぶことも出来ないので、用水をめぐる争いはとても深刻な問題でした。
肥料は田の場合1アールにつき、きさご20ざる、秣(マグサ)30駄程を入れました。畑の方は1アールにつき下糞(シモゴエ)5荷、秣10駄
ほどと書かれています。その値段は1分につききさご30ざる、下糞1荷につき100文となっています。きさごは現在ながらみと呼ばれている海の貝です。秣は干し草、下糞はトイレの尿や便を腐らせたものです。
農民は一生懸命働きましたが、作物が実らない年もありました。明和9年(1772)には、當村を含む9ヶ村は雨量
が少なく不作のため大豆や小豆年貢を免除してくださいと領主に出願しています。寛政2年(1790)も雨量
が少なく作物に被害が出たため、税の米1219俵が免除されました。これは税のほとんどにあたりますから大凶作ですね。きっと餓死する人もあったのでしょう。翌3年には、新田百姓30人が税を減らしてくださいとお願いするため領主の門前へ詰めかけています。また天保8年(1837)には「飢え死にしそうなので食料を貸してください」と領主にお願いする相談のため集まろうと計画しました。しかし昔は、何人もの人が集まることは厳重に禁止されていましたから、計画の指導者が一名罰として牢に入れられてしまいました。食料はない。助けてもらおうとすると牢に入れられる。ずいぶん辛かったでしょうね。
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こうした窮状を何とかしようと考える人も現れました。村内の安兵衛さんは、天保8年に111軒の貧しい家に大人鐚銭400文、子ども200文を分け与えました。
また翌9年には安兵衛の蔵に飢饉に備えた食料を貯えておくことを引き受け、関東取締出役に届け出ています。裕福な人が貧しい人に援助の手をさしのべる。非常時に対して食料を貯える。何か考えさせられますね。
今回は北生実村の、支配者、土地、税、農業について書きました。次回は生活、職業などに触れるつもりです。
生実神社前の道路を少し鎌取方面に行くと、北小弓城大手口跡があります。ここにお地蔵様がまつられています。安永5年(1776)に生実村上町橋戸の男の人と女の人で作ったと刻まれています。子どもを守る、人の寿命を長くしてくれるなどの力があるとして信仰されたお地蔵様です。このとき何を願って作られたのでしょうね。 |
〜子どもからのお便り〜1
今はすごく貧しい人が少なくなってきてるけど、昔はすごく不便で今とちがい、畑の肥料にだって昔は人間の尿やうんちだったと聞いておどろきました。今では考えられないことだと思いました。
それに、村や町のみんなが集まって相談するだけで、牢屋に入れられたり、色々なことをされてすごく昔の人は1日1日がつらくて、つらくて、しょうがなかったと思います。私だってそんなことをただしただけで、牢屋に入れられるのはいやだけど、でも、その人たちの考えをひっくり返すことが1回でも出来るのであれば、自分のためにも、村や町のみんなのためにも闘ってみせたいと思います。
でも、今はそんなことはありえないから、そのつらい毎日を送っていた人になって、その悲しみやつらさを実感することはあんまり出来ないけど、その人たちのことを考えることは出来るので、そのことについてもっともっと分かっていきたいですね!
(5年 沼野) |
〜子どもからのお便り〜2
結構生実の江戸時代はつらく大変だったんだと思いました。昔はとても水が大変だったんだなぁと思った。大人には400文、子どもには200文もあげる人がいたなんてすごいと思う。その人はとてもやさしかったんだなぁと思った。まだ生実には下宿など昔の名前があって良かったと思う。
(6年 斉藤) |
〜子どもからのお便り〜3
ぼくはこの作品を聞いて生実は、昔に田や畑が学校の何十校分あることを知りました。で、その田んぼの水の争いが南生実や曽我とあったことを知りました。それにこの生実であるおじいさんが大人や子どもたちにお金をあげていたそうです。
(6年 中村) |
〜子どもからのお便り〜4
生実には、そんなような歴史があるなんてびっくりしました。大きな大きな田んぼや畑があり、自分たちがいっしょうけんめいに作った食べ物を税金代わりに約4割をあげなくてはならなくて、少しかわいそうだと思いました。
(6年 篠崎) |
〜子どもからのお便り〜5
田んぼや畑がすごくでかいと思った。あと、集まるだけで何で牢屋に入れられちゃうんだろうと思った。江戸時代の人はお金や食べ物がなくて、かわいそうだと思ったけど、お金や食べ物をくれた人はすごくやさしくて、いい人だなと思った。
(6年 山口) |
〜子どもからのお便り〜6
昔は畑の肥料ですらも、人間の尿、うんちだったなんておどろきました。みんなで相談するだけで、牢屋に入れられたなんて昔の人は大変だと思いました。農民は一生懸命働いても、作物が実らない年もあったなんてかわいそうすぎだと私は思いました!
(5年 山口) |
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〜子どもからのお便り〜7
みんなで集まって相談などをしてはいけないのに、いろんな住民が集まったのでバツとして一人牢屋に入れられてしまったのがまず、かわいそうだと思う。食べ物がないし、助けてもらおうとすると、牢屋に入れられる。まさにさんこくだな〜!と思いました。私は自殺してしまうかも……(笑)
(5年 久保)
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〜子どもからのお便り〜8
何人もの人が集まることはげんじゅうに禁止されていて、計画の指導者が1名ばつとして牢に入れられて、昔は大変だと思いました。
(5年 秋元) |
〜子どもからのお便り〜9
昔は食料を取るのが大変だったことが分かりました。あと、北生実があったなんて初めて知りました。
(5年 安富) |
皆さんの感想で「昔は尿やうんちが肥料になった。」ことに驚いた人が多いことに、今度は私がビックリしました。私が子どもの頃は、これは当たり前のことでした。皆さんと同じぐらいの年令の子どもでも“こえたご”と呼ぶおけにトイレにたまった物を入れて畑に運ぶ仕事をしたのです。学校のトイレも6年生が当番を決めて、たまった物をおけに汲み取って、鼻をつまみながら捨てに行ったものです。
日本はこの50年ほどの間に生活が急速に変化したのですね。この問題についてお父さんやお母さんとお話ししてみてください。きっとあなたと違ったトイレを知っているお父さんお母さんがいると思いますよ。
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