
■親子で楽しむ千葉の歴史〜2002年9月〜
今月お話しする地区は、千葉町の一部でした。千葉町の範囲は、だいたい北は穴川から南は猪鼻、東は道場北、西は神明町のあたりまでです。今回は2枚の絵図を眺めることにしました。 これは、 天保(1830〜1843)の末の頃に宮負定雄という香取郡干潟町の人によって描かれた「下総名勝図絵」の中にあります。2枚ともだいたい猪鼻山あたりから眺めて描いていますが、対象とした景色の範囲が違います。順に詳しく見ていきましょう。
この城址から大和橋の方に下ったところに「お茶の水」と呼ばれる湧き水があります。千葉常胤が、猪鼻城に源頼朝を迎えたとき、この水でお茶を入れてもてなしたという言い伝えがあります。でも、延宝(1674年)、あの助さん角さんで有名な水戸黄門が千葉を通 ったときの旅日記「甲寅紀行」の中には、『古城の山根に水が湧いていて、東照宮(徳川家康)に差し上げたお茶の水と言い伝えられている。』と書かれています。たくさんの人が「ア〜うまい」とこの清水のおいしさに目を細めたのでしょうね。 山のふもとを、右から左手へ流れているのが都川です。橋の上流にも、下流にも屋根のついた船が見えますね。高瀬舟と言って船の中で食事の支度をしたり、寝泊まりしながら、米、燃料のマキ、炭などを生産地から消費地へ輸送した船です。昔の陸上輸送の方法は、馬の背に乗せて運ぶのですから、一度に運べる量 はわずかです。でも、船なら一艘で60kg入った米俵を300個も500個も運べたので、川は今の鉄道や幹線道路のような役割を果 たしていました。 船から荷物を上げたり、下ろしたりする場所は河岸(かし)と呼ばれていました。川に面 してズラリと並んだ家々を良く観察してみてください。これは全部普通の民家ではありません。大きな造り、周りは広く開け放たれ、たくさんの人が出入りできる商人の家ですね。二階建ても見えますよ。旅館かな、料理屋さんかもしれないなどと想像すると楽しいですね。橋の手前には天秤棒の両脇に荷物をぶら下げた人も歩いていますよ。船が運んでくる荷物、積み込む商品などで、都川の両岸がどんなに賑やかだったか想像できますね。 天正年間(1573〜91)に書かれた「千学集」(改訂房総叢書)という書物には、千葉について色々書いてありますが、その中に『河向こうを市場とした』と書いています。 また、天保(1830〜1843)の末の頃書かれた「房総三州漫録」の中には『千葉のあたりはすべて谷地とみえる。千葉城山を亥鼻という。下に千葉の大橋がある。千葉から寒河へ出る。左の山尾は長く続いている。佐倉藩の陣屋があり、20年前に建てて今年廃止した。』とあります。ちょうどこのあたりのことですね。 昔の燃料は草や木の枝を干した物、薪、炭などでしたが、中でも炭は上等品でした。支配者の佐倉藩は、この都川の河畔に炭を扱う「炭会所」を作りました。現代ならさしずめ、ガソリンスタンドを作って、ガソリン、石油、プロパンガスを貯えたというところでしょうか。 「年寄部屋日記」という古文書によると、文政8(1825)年に千葉町の利兵衛は、この炭会所での働きが立派だと認められて、会所付御用達を命令され「二人扶持」という給与を与えられたそうです。炭会所は都川の河畔に作られ、運ばれてきた炭の貯蔵倉庫は泉水村(現中央区今井と蘇我の間あたり)におかれました。 天保2(1831)年には、利兵衛の他に、千葉町の日雇い2名、泉水村の治兵衛、名主源右衛門、日雇い2名の計7名に褒美が与えられたほど大切な仕事でした。 絵図の中の橋を渡ると、たくさんの人が千葉妙見宮と書かれた方へ歩いています。これは、今の千葉神社です。昔も、信仰やレジャーでお参りに行く人が多かったのでしょう。あなたもゆっくり観察して何か新しく発見してください。 一番左手には「ハコロモノマツ」と書かれています。昔このあたりには、蓮の花が咲き、その美しさに天女もやって来て、、羽衣をこの松の枝にかけておいて遊んだという伝説がある松です。現在、千葉県警察本部の前に羽衣公園があり、公園の中には松の木が植えられています。昭和60年に復元された羽衣の松です。絵の中では松の付近には何もありませんね。
都川がうねうねと、曲がって流れ、海に注ぐあたりには寒川村の屋根が見えます。海岸に近い船は川を下ってきた船でしょうか。はるか沖の方に富士山、間の江戸湾には白い帆に風をみなぎらせて航海する大型の船がいっぱい見えますね。川を下ってきた小さな船から荷物を積み替えて、大消費地江戸の需要を満たすために海を航海する大きな船です。日本各地からも江戸を目指して航海してきていました。 寒川からずっと左へ海岸を見てゆくと三角形の物が三つありますね。これは、帆をかけて航海する大きな船の帆柱です。今は帆を降ろして停泊中なのでしょう。ということは、ここに港があるということですね。浜野村か八幡村を想定していると私は思いますが明確には分かりません。 こちらの絵では、羽衣の松あたりは 碁盤の目のように線が書かれているので、水田の中なのでしょうか。松の根本のところだけ島のように盛り上がっています。松のあたりから海岸付きの村までの間は、水田や湿地がずーっと広がっていたようです。 現在の景色と比べてみると、とても興味深いですね。この絵図を見てどう思いましたか。あなたの家はこの中のどのあたりでしょうか。
対岸に富士山から鹿野山まで描いていて、かなり広範囲にとらえていると考えたことと、稲荷町から今井町のあたりに大きな船が入る湊がなかったので、浜野かなと単純に思ってしまいましたが、宏文さんの考えが正しいかもしれません。
徳川家康が亥鼻城に来たと聞いたことはありません。しかし東金へ鷹狩りに行く御成街道が造られて現在の御殿町に御茶屋御殿が建てられましたし、その近くの金親町にある金光院というお寺には、家康が立ち寄ったときに使用した什器や衣類が寺宝とされています。この亥鼻の清水が運ばれて献上されて、お茶を楽しんだかもしれないとは考えられますね。 源頼朝については、時代が古いのでよく分かりません。他にもたくさんの「言い伝え」がありますので、全部事実だと信じるのではなく、「そういうお話が残っている。」と考えて、本当かどうかは自分で調べてください。
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