■親子で楽しむ千葉の歴史〜2002年8月〜





千葉市花見川区畑町、さつきが丘、朝日ヶ丘町の一部

江戸時代は畑村(はたむら)と呼ばれました。

徳川幕府初期の、慶長19(1614)年には、幕府が直接村を支配していて、代官として任命された高垣市直が実務を行っていました。でも、90年ほど経った元禄13(1700)年頃の記録では、幕府領と、幕府に直属の武士である旗本、金田惣次郎と遠山忠左衛門の3つに分けられています。村は生産物全部をお米に換算して、61トンほど(406石9斗)取れる村と評価されていますが、徳川幕府の終わり頃の記録で換算すると、代官支配所(10.7%)、遠山氏(50.5%)、金田氏(38.4%)、子安神社(0.3%)、薬師堂と動持院が残りわずかとなっています。

慶長19(1614)年には、船橋から東金へ現在の「御成り街道」という大道路工事が命令されました。この時村は330mの工事を分担しました。出来た道路の修理も造った時と同じ分担で近隣村々が責任を持たされました。でも大金が必要な修理の時は近所の村々に協力を頼む事もありました。文久2(1862)年に藤崎村の責任区域の板橋を石橋に代えた時には、費用がかかるので寄付をお願いしますという内容の「勧進帳」と呼ばれるノートが近隣の村に回覧されました。畑村の名主さんは金1両を寄付したそうです。

現在の六方町のあたりは、六法野と呼ばれ、この近辺13の村が草を刈るなど共同で利用する野原でした。この野はその後寛政、享和、文化、天保期に新田開発されだんだん耕地化され狭くなりました。安政5(1858)年には残り250町歩のうち半分の125町歩(125ヘクタール)を共同利用していた村々で分け、残りを以前通 り共同利用の秣場(まぐさば)として利用することになりました。昔は農業の肥料があまりなくて秣場で刈り取る青草などが、重要な肥料だったのです。

畑作物としてさつま芋がたくさん作られていて、文化以前は、売りたい人と買いたい人がどこででも取り引きしていました。でも、文化年中に馬加村など6か村で御用芋を扱うように変りました。ところがその後、馬加村の役人と芋商人136人が勝手に方法を変えたため、芋の値段が安くなって農民は困ってしまいました。そこで、畑村を含む山方の24の村は団結して、これでは困りますとお役人に訴えたのです。天保11年(1840)24か村の主張が認められ従来通 りの方法になりました。24か村とは、畑村の他は、宮野木、検見川、天戸、黒砂、久々田、柏井、横戸、勝田、殿台、花嶋、犢橋、長沼新田、薗生、小中台、稲毛、作草部、荻台、東寺山、西寺山、高品、長作、鷺沼、谷津村でした。近隣のどこの村でもさつま芋が作られていたようすが良く分かりますね。

嘉永元(1848)年、畑村名主・八郎左衛門は将軍の御鹿狩りのお世話をする役として馬喰町にあった代官屋敷で任命され、翌年の鹿狩りの時畑村の農民26人が動物を追い出す勢子(せこ)と言う仕事をしました。勢子は、手に手に音が出るものを持って横一列に並び、大きな声と鳴り物で動物を驚かせながら、山でも野原でも歩いて行ったそうです。

天保期、印旛沼から江戸湾(東京湾)へ川を掘る(現在の新川にあたる)掘り割り工事が行われ、畑村内の田畑のうち2反2畝余(約2アール)が川の土手となり、1町7反4畝(約1.7ヘクタール)が掘った土置き場となって作物が作れなくなりました。


幕末になると外国人が、「鎖国を止めて貿易などのお付き合いをしましょう」とやって来るようになります。すると、幕府は江戸城の目の前の海に外国の船が入り、戦争になったら大変だと、準備のため江戸湾の周りの調査を行いました。嘉永3(1850)年、この調査のため畑村は人足64人、馬11匹を出して協力しました。畑村だけでこれだけの人と馬が出たのですから、江戸湾岸全体ではどんなに大騒ぎだったか想像できますね。
今回のお話はここまで。お寺などについては、また希望があった時書きます。
十二社神社にある馬頭観音

前に書いてあるように、嘉永3年に馬11匹を出したというのですから、この当時馬は11匹以上村にいたわけです。飼い主たちは馬が病気や怪我をせず、仕事が順調にいくように祈って、お金を出し合ってこのような碑を造りました。どうです、この馬の元気そうなこと。碑を保護している建物の関係で、碑の後ろ側が見えずいつ造ったか刻んであるかどうか分かりません。

〜子どもからのお便り〜1

・徳川時代は長く続いたことが分かった。
・昔は米作りをたくさんやっていたのに、何でやめちゃったのかなぁ。
・昔は工事がたくさんあって、お金を出したり、村の人を出したり、馬を出したり、色んな人の協力が必要だった 事が良く分かった。
・昔は色んなことに人手が必要だったけど、そんなに人はいたのかなぁ?
・鹿狩りのために動物を追い出す勢子という仕事は、どうやって動物を追い出したのかなぁ?何人でやったのかな?
・昔はやらなくてはいけないという決まりみたいなのがあったから、みんな協力していたことが分かった。
・芋をたくさん作っていたことが分かった・どのくらい取れていたのかな?
・芋の値段が下がったとき、24か村が一緒になって、お役人に困りますと訴えたからすごいと思った。
・田や畑が土置き場となって、農作物が作れなくなってしまったことは残念だったのかな?
・幕末になって外国人が言った言葉で、外国人が日本に来たら大変だ!と思って、畑村が64人と馬11匹を出して調査に協力したことが分かった 。
・畑村はむかし畑村という名前であったことが分かった 。
・昔は61トンもお米が取れていたことが分かった 。
・印旛沼の工事のために色々なことが出来なくなってしまって、かわいそうだなぁと思いました。
・芋は今もこのへんで作ったりしているのかなぁ?
・板橋を石橋に代えるとき、畑村の名主さんは金1両を寄付したことが分かった 。
・芋の値段が変わってしまったときに、お役人に言いに行ったら元の方法にもどって良かったなぁと思った。
・六方町のあたりは昔六法野と言われていたことが分かった。
・六法野は新田開発され、だんだん耕地化されだんだん狭くなったことが良く分かった。
・250町のうち、125町歩を村々で分けて、残りを以前通り、共同利用の秣場として利用したことなどが良く分かりました。

(花島直美・11才)