■親子で楽しむ千葉の歴史〜2002年6月〜
都川の上流部に位置して、江戸時代ほしごきむらと呼ばれていました。
「千学集」という書物に、天文16年(1547)に千葉妙見宮(今の千葉神社)を建て直すために必要な木材をあちこちから集めた時、木や萱を星久喜と長峯にあるお宮の山で切り取ったと書かれています。
村の政治は、寛永10年(1633)から元禄10年(1697)まで、旗本辻忠兵衛織部(知行高147石7斗余)清野半右衛門(知行高120石)の2人が行っていました。旗本というのは、将軍に直接属している家来です。村の55%を辻氏、残り45%を清野氏が支配していました。その後元禄11年には、すべて作倉藩の領地に変わり、明治維新までそのまま続きました。
元禄11年の「年貢割付状(納税命令書)」によると、村の生産高をすべて、お米に換算して評価すると、40トンぐらい取れる村であると考えられていました。その面
積は、田が23.9ヘクタール、畑が7.6ヘクタールです。延享3年(1746)の「差出帳」によると、領主の所有する林が4.5ヘクタールあり、農業用水を貯える溜池が5カ所ありました。それはかぢや、やつ、わたうち、かま池、三戸谷という名前です。
嘉永3年(1850)の「佐倉藩領千葉筋村々年貢帳」によると、享保16年(1731)、寛保2年(1742)に新しく耕作されるようになった田や畑の税が加えられています。この頃野山が新しい耕作地に開発されてるということです。全部の税の納入高は米23トンあまりです。農民は、総生産高の半分以上を税として納めるわけですね。その他にも貨幣で納める分が、永1貫文余、金1両余、鐚500文余ありました。安政4年(1875)の「御領分村高帳」によると、税である年貢米は寒川まで農民の負担で運んで納めます。23トンもの米を、自動車のない時代に寒川まで運ぶのは大変だったことでしょうね。
この税は、毎年同じ量を納める決まりでしたが、明和8年、天明3年、寛政1年、文化5年、同14年、文政1年、同4年、天保4年には、量
が変わりました。なぜかというと、日照りで作物が枯れたり、台風のために稲が被害を受けたりして、お米の収穫量
が少なかったので減額してもらったのです。
延享4年(1747)の「皆済目録(税の領収書)」によると、年貢米は402俵を寒川にあった蔵まで、32俵を佐倉の椎木御蔵まで運んで納めました。
村の家の数は、延享3(1746)年の「差出帳」によると、名主1、百姓52で計53軒です。他に雄馬2疋と雌馬が20疋いたと記録されています。雌馬の方がおとなしくて、扱いやすいので雌馬の方が多く飼われています。天保11年の「宗門人別
御改帳」では、家数45軒、寺1で計46軒です。7軒(13%)も減ってしまいました。人口は男131、女119、僧侶1の計251人で、馬は10疋と半分以下になっています。天保の頃は、天候が悪くて作物が取れず、税を納められないので、家も土地も捨てて他国へ逃げていってしまう人や、飢え死にする人が出たので多くの村で家数や人口が減少する傾向があります。
農業用水については、村の中を加曽利方面から流れる都川の本流と、川戸方面
から流れる支流の合流点に設けた丹後堰(たんごのせき)がありました。これは、寒川村の布施丹後という人が、千葉寺や寒川方面
の農業用水として慶長18年(1613)にのべ7000人の労働をもって作った堰です。当時の水路の一部が現在丹後堰公園となっています。
また享保16年には、当村の農業用水が足りないので、平山村地内にあった大橋戸の堰から水を分けてもらえることになりました。でも、水不足のときには、今まで水を使っていた坂尾村、長嶺村に迷惑をかけないように当村は遠慮しますという約束の書類が作られました。
農業の肥料には、きさごという海の貝を入れていました。海から遠い星久喜村がどうやって海の貝を手に入れたのかというと、海に面
した寒川村が、「○月○日○時からきさごを取りはじめましょう。」と、海に面
していないため漁業権の無い村にも通知を出して、仲良く取るのが昔からの習慣でした。ところが、文化5年(1808)、それまでの習慣を破り、きさご取り許可の通
知を寒川村が出さなかったことと、きさごを買う船1艘について200文の金を取ったことから争いになりました。農業の肥料が無くなったら一大事です。組合であった登戸村、千葉町、矢作村、宮崎村、千葉寺村と当村は、一生懸命話し合って今まで通
りとする事が決まり、確認の書類を寒川村と取り交わしました。
寛政3年(1791)には星久喜、加曽利、坂尾、長峰、川戸、仁戸名村で五郷(ごごう)組合を作る証文を作成しました。これは、乱暴者が村に侵入してきた時などの非常時に、複数の村が協力して立ち向かって行こうとあらかじめ約束し合っておく事です。
「人馬一件日記録」によると、文政6年(1823)、星久喜村、長峰、上坂尾、下坂尾、川戸、加曽利村は、寒川村(中央区寒川町)の加助郷(かすけごう・宿場の通
行の世話をする人を出す)をするように命令されました。しかし、すでに将軍の鷹の世話をする鷹匠(たかじょう)が通
行するときの人足を1年間に600人以上も出していました。その他雲雀御上鳥継立御用(ひばりを幕府に献上するときの人足)もやっていますから、寒川へ行くのはかんべんして下さいと訴えて、この時は、やらなくても良いことになりました。
天保10年(1839)には、当村、仁戸名、坂尾、川戸村は、森覚蔵という代官の通
行について、寒川から検見川村まで荷物などを運ぶように命令されました。こういう役目は今回だけにして下さいと訴えて、この仕事をする代わりにお米を支給してくれることになりました。でも、また4年後に、寒川村への加助郷が命ぜられました。もう我慢できなくなって、当村の名主熊次郎が先頭に立って佐倉のお役所へ訴え、更に江戸にいた藩主堀田正陸が外出する時に、「恐れながら殿様に申し上げます。」と駕籠訴(かごそ)をしました。駕籠訴は切腹を覚悟しなかればならない大変重い罪になる行動です。あまり大変な活動なので小倉村は途中で脱落してしまった程です。この活動の結果
は、人馬を出す代わりに米が支給されることになりました。
弘化4年(1847)には、今井村と泉水村から銭399貫文あまり助郷として助けて欲しいと要求され、再三交渉した結果
、15貫文に減らしてもらい今回限りですよと条件をつけて協力しました。でも嘉永5年また加助郷を命ぜられ当村、仁戸名、川戸、坂尾、長峰、北谷津村は免除してくださいとお願いしました。こんなにたくさんの記録が残っていて、宿場への助郷は、長い間大変な負担だった事がわかりますね。
村には、千葉から東金へ行く道路が通っていました。この道に沿って、星久喜村内だけで、公儀の松並木500本が植えられていて、この木は星久喜村が管理していました。元禄13年(1700)、幕府から田畑の障害にならないかとの質問があったので、「田畑の障害にはならないけれど、道路の状況が悪いので、通
行する人や馬が困っています。」と答えています。
この道路は村の中で、士気往還と東金往還に分かれます。分岐点であったところ(中央バスの停留所「松ヶ岡」の近く)には、今も追分けのお地蔵様があります。ぜひ行って見てください。道標を兼ねていて、「右へ行くと士気へ行く道 左へ行くと東金への道」という意味の言葉が彫ってあります。
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字経塚に天台宗の星久山宝蔵寺千手院があり、坂尾村の栄福寺の末寺です。寛文11年(1671)に造られた石塔や享保2年(1717)に2人の人が彫られた供養塔、宝暦14年(1761)の六地蔵などがあります。
字取林には三上神社があります。鳥居は文政9年(1826)に造られています。村に悪い病気などが入ってこないように、又旅行に出た人の安全を守る道祖神は、享保8年(1723)、宝暦9年(1759)、文政9年(1826)のものがあります。また、大流行してたくさんの犠牲者を出す恐ろしい病気・天然痘のことを祈る疱瘡(ほうそう)神は天明4年(1784)のもので、ほかにもたくさんの石で造られた碑があります。
士気道と東金道の分かれるところにあった、道案内を兼ねたお地蔵様。
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〜子どもからのお便り〜1
私はこの役をやってすごく楽しかったです。特に色んなことを書くことが好きなのでとても楽しかったです。お父さんは読むだけであとは手伝ってくれませんでした。私は少しむずかしいな〜と思いました。あまり江戸時代のときのことは分からなかったので、そこがむずかしかったです。なかなか理解ができず、ちょっとむずかしくて大変だったけど、お米が何十トンもあるなんてすごいなと思いました。
初めて江戸時代の話を聞いて、昔は車がないのでとてもふべんだと思いました。馬が青葉町、星久喜にはオス・メス合わせて22頭しかいないなんてびっくりしました。私は50頭よりもっと多いかと思いました。
青葉町、星久喜の人口は251人と聞いてびっくりしました。今はとっても多いので、昔とくらべるとおおちがいです。
昔は税金をお米でやっていたなんてへんだな〜と思いました。私がもしその昔に生まれてたらやだな〜と思ったけど、今に生まれて良かったです。
(福田芽生) |
〜子どもからのお便り〜2
お手紙ありがとうございました。あの時(お手紙を書いた時)はまだ馬頭観音(稲荷山神社)に行ったことがなかったけど、この前初めて行ってみました。
何で行ったかというと、夏休みに『宮野木の歴史』を調べることにしたから、その取材に行ったからです。馬頭観音の他にも「三社神社」「長福寺」などに
行きました。古いものがたくさんありました。
話がもどりますけど、馬頭観音(稲荷山神社)には、大正〜明治に出来た土の絵馬が140枚くらいあります。とてもすばらしい絵馬でした。それをこすり出したらとってもきれいでした。調べたら自分の住んでいるところにも、ちょんまげの人が本当にいたんだなぁと思います。
(神田まどか) |
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