
■親子で楽しむ千葉の歴史〜2002年5月〜
このあたりは大草(おおぐさ)村と呼ばれていました。 村の政治を執り行っていたのは佐倉藩です。藩は、村で取れるものを全部お米に換算して評価すると232石8斗(約35トン)くらい取れる村だと考えていました。そこで村から税(年貢)として米111石1斗余(約17トン)を取りました。これは全体の48%に当たりますから、農民は1年間働いた収穫の大体半分ぐらい税として納めることになりますね。 その上この税の米俵は江戸に送るので、当時港のあった中央区寒川の米蔵まで農民が自分たちで運んで、藩の役人に渡すのが義務でした。なにしろ60kgもある米俵を、人と馬の力で約280も運ばなければならないのです。大変なことですね。その他にも貨幣で納める税がありました。当時は永(えい)と、その4分の1の価値しかない鐚(びた)という貨幣が使われていました。村は永銭約9貫700文と、鐚銭約5貫300文を納めなければなりませんでした。 人々は、少しでも収穫を多くしたいと思い、野原や山を切り開いて新しい田や畑を作りました。そうして出来た新しい田畑にも税がかけられます。延宝6年(1678)、元禄15年(1702)、寛保2年(1742)、享和2年(1802)、文化2年(1805)に税が増えているので、この頃新しい田や畑が作られたと判ります。 大草村の人々は税を納めるほかに、次のようなこともした記録が残っています。 1:慶長19年(1614)に江戸の将軍が東金に行くための道路「お成街道」を造る命令が出されました。この時約110メートルの工事を隣の坂月村と力を合わせて完成させたのです。 2:大きな道路沿いの村には、幕府の役人などが通行する時世話する役目の村があります。これは大変な人手とお金がかかりましたので、道に沿っていない多くの村でも手伝いに行く負担がありました。これを助郷(すけごう)と言います。現在四街道市に属する北組14の村と大草が属する南組12の村は、享保9年(1724)、同18年に一緒に助郷役をつとめたけれど、享保20年には南組だけで負担するように命じられ、「それは困ります」と金親村を代表として佐倉の役所に訴えました。 3:将軍に飼っている鷹の世話をする人(鷹匠)が通行するとき、宿泊や食事の世話を小倉村などと協力して行いました。 4:幕末になると人々の生活が苦しくなって、生まれた子供をこっそり殺す人が増えました。佐倉藩は子育教諭係(こそだてきょうゆかかり)という役人を派遣して、「子供を殺すのは悪い事ですよ」と教育することにしました。大草村には、安政4年(1857)に奉行1名、手代2名が宿泊しましたし、文久2年(1862)には、子育教諭出役2名が宿泊しています。 5:幕末世の中が乱れて、浪人やヤクザが刀を振り回し、農民からお米や金を取り上げるなど乱暴をしました。そこで、弘化4年(1847)頃、金親、北谷津、大草、坂月、小倉村で「五郷組合村」を作り、団結して乱暴者に対応しました。 6:将軍が鹿狩りをするときは、たくさんの人が出て、大きな音をたてて動物を山から追い出す役目もします。 お寺は真言宗豊山派の若宮山大草寺があります。金親村の金光院の末寺で現在はここにお坊さんは住んでいません。寺には大師堂、正徳3年(1713)と寛政11年(1799)に造られた十九夜観音、天明7年(1787)のお地蔵様などがあります。お地蔵様は子供を守ってくれる仏様です。天明の頃は大飢饉があって、多くの人が死んだそうです。亡くなった子供たちの幸せを祈って造られたのでしょうか。 神社は八幡神社があります。同じ場所に雉子宮神社、天神社もまつられています。 村の大坊寺(だいぼうじ)と呼ばれる場所に、どんな日照り続きの年でも水が枯れた事のない池があり、まん中に柳の木がはえていました。この木について、昔から代々語り伝えられたお話があったそうです。
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