■読者のページ〜2005年5月〜
暖かくなってきたし、花粉の飛散もおさまってきたし、週末は外に遊びにいくことが多くなりました。お花見、潮干狩り、サイクリングにピクニック。なるだけお弁当を持って出かけます。予定のない休日は、朝起きて天気がいいと、ごはんを炊いてお弁当の準備です。朝ご飯を食べたり、お弁当を作ったりしていると、出かけるのはお昼前になってしまうけど、近くの公園でお弁当を食べるだけで楽しいのです。うちの子ども達は外でおやつを食べるだけでも喜びます。
子どもがもっと小さい時は、お弁当を持って出かけるなんて、とてもたいへんでした。子どもに手がかかるうえに、休みの日は朝が遅い、夫も朝ご飯を食べる(普段はコーヒーだけなのです)ので作るのがいつもより手間がかかる、洗濯や掃除もしなくちゃならないし、おまけにお弁当まで作るなんて……。でも、外で食べれば何でもおいしいし、外で遊べば子どもは退屈知らずです。お弁当はおにぎりと冷蔵庫の残りもの、朝ごはんはパンとコーヒーだけ、掃除はしない、と、手抜きだらけですが、その気になれば出かけられるものですね。
お弁当づくりも大変ですが、子どもがもっと小さい頃は外に出ると目が離せなくて大変でした。遊具から落ちないように、車道へ出ないように、常に気をつけておかなければなりません。そんな頃、浜辺に連れて行ったことがありました。何もなくてただ広い浜辺。子ども達は退屈するかもしれないな、と心配していたのですが、砂を掘って、貝殻を拾って、よく遊びました。どんどん走っていっても何もないので見通しがよいし車道に出ることもなく、遊具がないので落ちることを心配しなくてよい。海に入っていくかと思いましたが、波が恐くてその心配はありませんでした。何もなくてこんなに遊べて、何もないってことがかえって安全に感じられて、そのときとても驚きました。それまで道路に囲まれいたとしても狭い公園の方が目が届くと思っていたし、遊具など遊ぶ道具がある方が子ども達も退屈しないと思っていたのですが、全く反対でした。子どもは囲われていたら出たいと思うようだし、遊具は死角を作って見通しが悪くなる。それからは、もちろん遊具でも遊びましたが、何もない広い芝生の公園などにもよく行くようになりました。
何もない、自然に近い方が子ども達はよく遊ぶのかもしれません。水が出てくるだけなんだけど砂浜をずっと掘ってる。どんぐりや松ぼっくりをいくつもいくつも拾う。芝生の上をころがりまわる。単純なことばかりなんだけど飽きない。少し大きくなった我が家の子ども達は、今、木登りや基地作りが大好きです。ある公園には小さい山桜の木がたくさん植わっていて、大人の背くらいの高さまでしか登れないのに、木登りが楽しくてしかたがない。小さな木でも木登りができることにも驚きました。別の公園では、茂みの中に折れた枝や落ちていたロープを拾ってきて、基地作りに励んでいました。そんな姿を見ていると、私も子どもの頃ワクワクしながら基地を作って遊んだことを思い出しました。子ども達に、もっともっとワクワク体験してほしいなあと思いました。
暑くてたまらなくなるのはまだまだ先です。お休みの日はがんばってお弁当持って子ども達と外へ遊びに行こうと思います!
2:日本のアヘン政策
(1)音蔵とアヘン政策
半の本が出て10年近くたってから、2冊の本が出ました。「続・現代史資料12 阿片問題」と、江口圭一の「資料 日中戦争末期阿片政策」です。そしてこういった資料を使って、日本のアヘン政策の全体を見渡す研究がようやく出てきました。倉橋直道の、「日本の阿片戦略-隠された国家犯罪」と「日本の阿片王-二反長音蔵とその時代」です。これによってようやく、半の本の検証ができるようになりました。
音蔵は明治8年に大阪府三島郡福井村(今の茨木市)に生まれ、水田の裏作としてケシ栽培を始めます。音蔵はのちに尊農と号したように、二宮尊徳に憧れ、ケシ栽培で福井村を繁栄させようとします。そしてのちに「裏作で四百円以上の高収入があるので、今日では当村には一名の貧乏人もない様になった」と語るほどになり、音蔵はこれを日本全国に広げようと、自費でケシ普及に走り回り、また内務省主催の栽培講習会の講師にもなります。音蔵はさらに自費で、当時日本領の朝鮮・満州へも普及に出かけます。まさに、呼ばれればどこにでも行くという事で、阿片王というより、金にならないケシ栽培普及王と言ったところです。
ところが、満州事変以降、音蔵は内地から招かれるだけでなく、外地からも招聘される様になります。それも朝鮮総督府・満州国から招聘されます。音蔵はすでに56歳を超えており、蒙古連合自治政府(日本の傀儡政権)に招かれたときは、70歳になっていました。それでも、ケシ栽培の第一人者であり、アヘンの増産には不可欠な人物だったのです。「戦争中、彼はむしろ晴れがましく、また得意な気持ちで世を過ごすことができた」(倉橋)のです。
(2)アヘン政策の目的
日本は朝鮮でケシ裁判を奨励します。また満州ではケシ栽培を管理し、アヘンを専売制にします。その戦略を倉橋は次のように述べています。すなわち、日本は中国大陸に100万の軍隊を8年間も派遣し続けます。その費用は「現地調達」しなければやっていけません。「現地調達」とはつまり掠奪です。しかも長期にわたって収奪できなければなりません。日本の傀儡政権は徴税機構が弱体だったので、税収はタカが知れていました。
そこで日本は、熱河省の農民にケシを栽培させ、それを満州国全体のアヘン中毒者や他の占領地に売りつけます。つまり労働力として収奪し、さらに消費者として収奪する訳です。「このシステム成立によって、日本側は、日本本土から資源を何一つ持ってくることなく、経常的、かつ、安定的に利益を得ることができた。阿片専売制からあがる利益は莫大なものであって、それは満州国の植民地財政の基幹部分を形成した」のです。そしてアヘン吸煙の習慣のない朝鮮ではアヘンをモルヒネに加工し、それを朝鮮人に売りつけました。朝鮮ではモルヒネは野放しだったのです。 さらに日本は蒙彊地区(蒙古連合自治政府)のアヘンに目をつけます。蒙彊地区では、アヘンを年間400〜500t生産し、大部分は中国本土の軍事占領地域で消費されました。
さて日本の製薬会社の原料アヘンはこういった植民地から輸入され。国内産と合わせて、50tになります。これから作るモルヒネは「供給量の六割以上は軍需に用ひ、残余が医師に配給されてゐる」とされていますが、民間では、モルヒネから作る燐酸コデインが多用され、その燐コデが戦時中には払底しました。そこで倉橋は、四割のモルヒネのうち少量が燐コデに加工されて医師に回り、あとはヘロインもしくはモルヒネとして、中国に密輸されたと推察しています。
(3)国際批判と日本人
こうした日本の戦略は、当然、国際社会から多批判を浴びました。イギリスは既に、インド産アヘンの中国輸出をやめており、日本がその後を襲ったからです。しかし日本は国際阿片条約をことごとく破棄しました。こうした中で、二反長音蔵が活躍しました。音蔵は、自分の立場は良く理解していたはずです。自分たちが作り、栽培を奨励しているアヘンが、中国人を廃人に追い込んでいることは知っていました。音蔵は満州国に招かれたとき、住民のアヘン吸煙が野放しになっている状況をつぶさに見、阿片窟の探訪記まで書いています。ですが、これを読んだ倉橋は「彼は安東の阿片窟で、多くの阿片中毒者を見ても、彼等が、自分が下支えをしている日本の阿片政策の犠牲者であるという認識をついに持ち得なかった。自分の仕事と、目の前で阿片を吸っている中毒者との関係を認識しなかった。……中国人などのアジアの人々に対する同情心が基本的に欠如していた」と書いています。
(4)二反長半の本の検証
星一は明治6年に生まれ、77歳で亡くなりました。二反長音蔵は明治8年に生まれ、76歳で亡くなりました。この巨大な父親を持った息子たちは、噂だけが一人歩きし、本当の人物が知られぬまま、忘れ去られていくのに耐えられず、父親の伝記を書き上げます。しかし息子から見ても全貌は理解しきれません。この二人の明治人のエネルギーは、どこから来るのでしょう。
半も音蔵を理解しきれなかったようです。相反する人格を内包する音蔵を描くために、半は結局、自分が批判した新一の手法、をとります。すなわち、伝記の整合性を取るため、相反する部分を切り捨てたのです。音蔵のもうひとつの活動に、帝国一日一善会がありました。音蔵は会の活動のために山林・田畑の一部を手放しますが、半の本は、この会には全く触れていず、山林を手放したのはケシ普及の費用のためとしています。
倉橋によると、この会は、小さな親切運動に似た社会運動です。それにケシ栽培の普及会がセットになっています。そして社会福祉事業として、慈恵医院という無料の病院と、無料供養所という無料の葬儀場を始めます。この阿片教ともいうべき帝国一日一善会は結局、慈恵医院の費用がかさんで立ち行かなくなります。
郷里の人たちには、私財を投じてまで献身するのに、中国人などへの同情心は欠如している。半がこの会に触れなかったのも、無理ありません。なお、この会の活動が停滞する頃から、東京や大阪などの大都市では、在留朝鮮人のモルヒネ中毒者が問題になってきます。東京にいる朝鮮人四万人のうち、モルヒネ中毒者が三千人という調査もあります。この時期、日本へは、朝鮮から数百万人が渡ってきており、その中にモルヒネ中毒者がいるわけです。当時、朝鮮では、毎年数万人の割合でモルヒネ中毒者が作り出されており、その一部が日本に渡ってきたわけです。このため東京では生江孝之や馬島ゆたかが、麻薬中毒者救護会を作りました。この問題に音蔵の会は全く関与しません。ケシ普及とセットになった音蔵の会は農村部が中心で、会の周りにはモルヒネ中毒者はいなかったのかもしれませんが、矛盾だらけの会と言えます。
(5)東京裁判
音蔵の帝国一日一善会を見ると、私は里見甫・さとみはじめ、の宏済善堂を思い出します。中国人の社会福祉機関の、医療・葬儀も含む幅広い福祉事業を隠れ蓑にして、中国人に成り済ました里見甫・リーチェンプがアヘンの密売をしていました。この里見機関の利益の一部は、興亜院に納められますが、大部分は軍部や政治家に流れました。翼賛選挙のとき、岸信介商工大臣に五百万円(当時)が渡ったのは有名な話です。宏済善堂も音蔵の会も表面は良く似ています。なお里見甫は、アヘン関係では珍しく、A級戦犯として東京裁判にかけられ、結局釈放されています。このように東京裁判ではアヘン政策は、ほんの少し取り上げられただけで終わってしまいます。したがって一介の農民にすぎない音蔵も(MPの取り調べは受けたが)何ら処罰されません。
この理由について、倉橋は三つあげています。ひとつは、アヘン関係の資料は、一貫して意図的に隠されてきており、残存資料も煙滅されたからです。よって国民はほとんど知りません。二つめは、東京裁判はアメリカ主導で行われ、中国・朝鮮は裁判の中枢から排除されていました。直接の被害者である中国・朝鮮がこの問題を許すはずがないのです。三つめは、アヘン政策の当事者である内務省・軍部・植民地官庁が、敗戦を機に解体されたからです。しかしアヘン政策のいちばん重要な、敗戦までの8年間当事者だった厚生省は無傷で残りました。にもかかわらず、厚生省はアヘン関係の資料を出していません。また製薬会社も口をつぐんでいます。
厚生労働省と交渉を重ねてきた倉橋は、音蔵の会を述べたところで「政府など、公的な機関が行う社会政策的な観点からの社会福祉事業は、本質的に人間味に欠けたものである」と喝破しています。厚生省のこうした体質が、のちに水俣病や薬害エイズ事件の対応に、尾を引いて行きます。
(6)倉橋正直と研究
倉橋は「日本の阿片王」のあとがきで「たとえば、日本が、国際条約に背いて密輸し、領事裁判権を悪用して中国の国民に売り込んだヘロインの中毒で、おそらく1,000万人単位の中国人が恨みを呑んで死んでいったことであろう。だから、現在、中国の人々が心底、日本人を嫌うのは当たり前である。阿片政策が日本の中国侵略の中心にあったのだから、それぬきで、近現代日中関係史を語ることは、およそ無意味である」と述べています。
私たちは日本のアヘン政策をほとんど知りません。研究も大幅に遅れています。ただし、今後中国では、この研究が進むことでしょう。これ以上、彼我の認識のギャップが広がるのは不幸なことです。私たちがこの問題に関心を持つことが、厚生労働省の体質を変え、日本の研究を後押しすることになるのです。それが私たちにできる第一歩なのです。
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