■読者のページ〜2005年4月〜
新しい年度が始まります。1月も一年の節目ではありますが、子どもが学校や幼稚園に通
っていると、やはり四月も新たな気持ちで迎えてしまいます。また 一年、子ども達が元気に学校や幼稚園に通
え、毎日楽しく気持ちよく過ごせるよう見守っていきたいです。
昨年、娘が小学校に入学したのですが、年度の途中で児童数が増えクラス替えがありました。クラス替えの数日後、娘が「ロッカーに名前がなかったんだけど、今日、先生が作ってくれた。」と言いました。ロッカーは出席番号順に並んでいるのですが、後ろのあいている場所に作ってもらっ
たとのことでした。その時、ちょうど夕飯の支度で忙しく、よく聞いてあげませんでした。クラス替えがあった日から「ただいま」の声が元気なく、放課後も遊びにいくことも少なくなっていました。私はクラス替えで、やっと仲良くなった友達とも分かれて、ちょっとがっかりしているのかな、と思っていました。食欲がないと言って朝ご飯を食べなくなってしまいました。クラス替えから既に二週間ほどたっていたのですが、名前のことが気になり担任の先生に話して名前を出席番号の場所に直してもらうことにしました。次の日、とても元気のいい声で「ただいま!」と帰ってきました。靴箱もロッカーも名前の位
置を直してもらったとのこと。それから朝ご飯も食べるようになったし、朝もさっさと登校するようになりました。やっぱり、名前のことが心に引っかかっていたんだな、と私もホッとしました。
今思えば、娘が初めに名前がなかったことを私に話した時によく聞いてあげればあげれば、名前の位
置を直してもらわなくても娘は立ち直れたのかもしれないな、と思います。クラス替えの後ロッカーや靴箱に自分の名前がなかった時、娘はずいぶん寂しい思いをしたのだと思います。朝ご飯を食べなくなるまで私はその気持ちに気がつきませんでした。もしかしたら、自分の寂しい気持ちにお母さんが気付いてくれなくて、食欲までなくなってしまったのかもしれません。娘から話を聞いた時、泣いてないし大丈夫かな、自分で先生にいって解決したみたいだしこれ以上聞くと蒸し返すようなことになるかな、先生に相談するほどのことじゃないかな、神経質すぎるかな、などといらないことを考えて、子どもの気持ちを考えていなかったように思います。自分では、子どもの気持ちだけ、考えているつもりだったのですが。
このことは嫌な思い出になるかもしれませんが、よい経験にもなるかもしれません。私が学校に先生と話しにいった時、娘はとても嬉しそうでした。私はその時、一生懸命でした。娘はそのことがわかったのでしょう。娘は先生のことが元々好きでしたが、名前をはり直してもらってもっと好きになり信頼するようになったと思います。私はこのことがあって自分がどんなにいたらないか気付くことができました。
小さなことでも毎日いろんなことがあります。子どもが困った時に支えられるように、子どもの気持ちに気付いてあげられるように、そっと見守ることができるようになりたいと思います。
本稿は、私の興味のある本を紹介するのが目的ですが、本のテーマの、予備知識が必要なので、概観的な説明を述べ、あいだに本の紹介を入れました。本は、手に入りやすいものを選んだつもりですが、ない場合でも、大きな図書館なら置いてあります。紹介する本は以下のとおりです。
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読 み 物
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| 『人民は弱し官吏は強し』 |
星新一
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新潮文庫
(初版は文芸春秋)
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| 『戦争と日本阿片史 〜 阿片王二反長音蔵の生涯』 |
二反長半
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すばる書房
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| 『日本の阿片戦略 〜 隠された国家犯罪』 |
倉橋正直
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| 『日本の阿片王 〜 二反長音蔵とその時代』 |
倉橋正直
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〃
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資 料
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| 『続・現代史資料12 阿片問題』 |
岡田芳政
多田井喜生
高橋正衛
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みすず書房
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| 『資料 日中戦争末期阿片政策〜蒙彊政権資料を中心に』 |
江口圭一
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岩波書店
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1:一と音蔵
(1)二反長半と音蔵
もう28年ぐらい前のことです。私は暑い中を、水道橋のすばる書房へ歩いていました。当時、すばる書房は「月刊絵本」等、新進的な児童書を出していましたが、残念ながらその後、鶴書房と一緒に倒産してしまいました(そういえば当時、鶴書房で出していたスヌーピーのマンガ「ピーナツ・シリーズ」は、今どこで出しているのでしょう)。
その日の目的は、二反長半・にたんおさなかば(本名二反長半二郎・にたんちょうはんじろう)の「戦争と日本阿片史」を買うことでした。これは児童書ではありませんが、二反長半は日本児童ペンクラブ会長を務めた童話作家です。千葉県立中央図書館児童室の開架書庫にも10冊以上あります。私の蔵書からも「忍者かげろうの風太」(理論社)が出てきました。「戦争と日本阿片史」は副題に「阿片王二反長音蔵の生涯」とあります。にたんちょうおとぞうは、半の父親で、今の大阪府茨木市でケシの栽培をしていて、その栽培普及に尽力したことから阿片王と呼ばれました。ケシは花が咲いたあとの未熟の果実(ケシ坊主)に切り傷を付けると乳液(阿片汁)が取れ、これを乾燥させると生阿片・しょうあへん、になります。これから麻薬の阿片煙膏やヘロイン、薬のモルヒネや燐酸コデインが作られます。戦前戦中と日本ではケシの栽培が盛んで、和歌山県は全国一の生産量を誇り、乳液採取の時期には学校は「ケシ休み」になり、子どもも手伝ったそうです。今も日本では厚生労働省の依頼で、20戸ほどの農家が(採算は取れないそうですが)ケシを栽培しています。
(2)星新一と一
数十年前に月刊誌で、中国共産党がアヘンの密輸出をしていると報じたことがありましたが、戦争中のに日本はどうだったのだろうと思っていました。しかしアヘン関係の資料や本はほとんどありませんでした。半の本が出る前は、星新一の「人民は弱し官吏は強し」ぐらいです。これは新一の父の星一・ほしはじめの伝記です。星一は明治6年に今のいわき市の農家に生まれ、独力でアメリカに留学し、帰国後、星製薬株式会社を作りました。星製薬は日本で初めて塩酸モルヒネの精製に成功し、その原料の生阿片や粗製モルヒネは、当時日本領の台湾総督府から払い下げられました。なぜ総督府が生阿片や粗製モルヒネを持っているかというと、総督府がアヘンを専売していたからです。表向きはアヘン吸煙を禁止し、アヘン中毒者には総督府が特別にアヘンを分け与えます。したがって中毒者は価格が高くても総督府から買うしかない訳で、莫大な利益を総督府にもたらします。ですから台湾では、中毒者の漸減主義を掲げますが、中毒者をなくす気はなく、アヘン専売は、総督府の財政の根幹を成していきます。その一部をモルヒネ用に払い下げた訳です。この「漸減主義」を伊藤博文内閣に建白したのは、時の内務省衛生局長・後藤新平です。こうして後藤は総督府衛生顧問となりました。その後、彼が星一に払い下げを斡旋するのです。
(3)音蔵と一
また、二反長音蔵もケシ栽培を管轄する内務省衛生局長・後藤新平に建白書を提出します。台湾を専売制にするには、アヘンを輸入しなければなりません。インド・イラン・トルコなどから台湾に輸入されるアヘンは明治31年では149t・171万円になりました。音蔵はこのアヘンを日本国内で自給すれば、貴重な外貨の流出を防げると建白し、そのケシ栽培を自分たちにやらせてくれと願い出て、認可されました。つまりアヘンの専売制は、台湾でのケシ栽培禁止とセットになっていたので、音蔵はそこに目をつけたのです。
こうして、音蔵たちの作ったアヘンは、台湾総督府に納められ、それを使って星一はモルヒネを製造し、音蔵・新平・一は旧知の間柄になっていきました。
(4)モルヒネ独占をめぐって
そして星一はモルヒネの独占生産で、莫大な利益を上げました。ところが大正8年、野党の憲政会は、星製薬のアヘン払い下げ疑惑で、原敬内閣(政友会)を追求します。 憲政会は議会で、星製薬の株の大半は(台湾専売局長高等官らの夫人によって組織された)婦人慈善会が握っていると追求し、しかも議会直後には、株主リストから婦人慈善会の名が消えてしまいます。この疑惑によって、星製薬はモルヒネ製造の独占を破られ、現在の大日本製薬・三共・武田薬品工業も莫大な利益の分け前に与ることとなりました。 このあと星製薬は、原料アヘンの払い下げを中止され、しかもアヘン密輸疑惑で起訴されました。大正15年に裁判は無罪になりましたが、星製薬は倒産してしまいます。その株主総会の最後に、星一はこう語り終えたそうです。「…人民は弱し、官吏は強し。」 後藤新平は政友会党員であり、星一は政友会と憲政会の政争に巻き込まれたとも言えます。ところで、星製薬は倒産しましたが、薬用アヘン・モルヒネ製造の認可は、現在に至るまで残りの三社で独占しています。新規の会社を参入させない、国の一貫した政策は、どういう理由なのでしょう。
(5)星新一の本の検証
星一は昭和26年、77才で死去するまで官庁を相手に争い続けたそうです。新一は「父の一種の趣味になってしまったのかもしれない。いやいやながらの使命感だけでは、こうはつづかないだろう」と述べています。「人民は弱し官吏は強し」はそんな父の汚名をそそぐために書かれました。そのため美化して書かれており、二反長半の指摘したように、台湾総督府の婦人慈善会については触れていません。また半は、音蔵を訪ねてきた後藤新平や星一に会っていますが、新一は、音蔵にも触れていません。
半によると、昭和10年に星一は何を思ったか、薬石新報紙上で「今日のケシ栽培はもともと自分が始めたものである」と発表したので、音蔵は薬石新報にすぐさま抗議文を掲載したそうです。そんないきさつも関係したかもしれません。しかし新一は父の正当さを主張するためには、あえて陰の部分には触れなかったのでしょう。新一が晩年になって星薬科大学の理事を辞めたとき、新聞のインタビューで「ようやく整理がついて辞めることができました。肩の荷が降りた思いです」と言っていたのを思い出します。こうして星一の名は大学に残るだけになりました。
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