■読者のページ〜2005年3月〜

この頃のうちの息子

このところ、4歳の息子が、年を取るとか、死ぬ、ということを怖がります。
「ボクもとしよりになる?」
「としよりになったらしむの(死ぬの)?」
「ボク、しみたくない(死にたくない)……」
と言ってシクシク泣きます。しばらくそういう日が続いていたのですが、ある日、だんだん嗚咽がひどくなって吐いてしまいした。次の日も激しく泣いて、子供部屋で遊んでいたお姉ちゃんとその友達が、「どうしたの?!」とかけつけるほど。でも、その次の日からはパッタリと泣かなくなりました。

そういえば上の子も、死ぬことや年をとることを不安がる、そんな時期があったような気がします。私も小さい頃、年を取りたくないなぁ、死ぬのは恐いなぁ、と思ったことがあるのを覚えています。幼稚園の頃(と私は思っているのですが)、自分の家の花壇の前で植わっている草花をなんとなく眺めていたら、「自分が大人になったら……???、想像できない、自分が大人になるなんて……大人になりたくないなぁ、このまま子どものまま、ずっと今のままでいられたらいいのに」というようなことが頭に浮かび、それにとらわれてしまった、ことを覚えています。

息子の話を私の妹にしたところ、こんなことをはなしてくれました。彼女は小さい頃、人間は、恐竜のように、年をとるとともに体もだんだん大きくなるものだと思っていたそうです。そして、大きくなった人は小さい人と一緒に住めないので別なところに住んでいて(「ジャックと豆の木」の大男の世界がそれ)、大きくなるのに失敗した人が年を取っておじいさん、おばあさんになる、と思っていたそうです。小さい子どもは面白いことを考えるものです。

号泣はなくなりましたが、息子は毎日のように年をとることや死ぬことを話題にします。
「みんないっしょにしむ(死ぬ)んでしょう?」
「ボク、あといっしゅうかんいきる?」
「ボク、ながいきしたでしょう?」
こういうことをなんとなくわかるというか、感じる年頃なのでしょうか。とりあえず泣かなくなったので少しホッとしていますが、まだしばらく彼はこのことにとらわれそうです。そんなときは私にできるのは、息子をお膝にのせて抱っこして、
「そうだよ、みんな年取って、死ぬんだよ」
と彼の話を聞いてあげることくらいです。それをみて上の子はけたけた笑っています。たぶん、1、2年後、息子もそんなふうにけたけた笑っているんじゃないのかな。

大林ハル

人間とは何か〜サル学からのアプローチ

 人間を人間たらしめているものは何か。このテーマには、哲学をはじめ、様々な考察がなされています。その中で、私が最近注目しているのが、サル学からの、しかも実証的な研究です。たとえば、島 泰三の『親指はなぜ太いのか』や、正高信男の『子どもはことばをからだで覚える』です(共に中公新書)。島さんは、在野のサル学者で、福音館の『たくさんのふしぎ』では、姪ごさんとアイアイの絵本を出しています。

 正高さんの、サル学から人間学への最初のアプローチは93年の『0歳児がことばを獲得するとき』でしょう。ベストセラーの『ケータイを持ったサル』(共に中公新書)は彼の仮説ですが、それ以外の研究の特徴は、非常に実証的だということです。
サルは言葉を話せませんので、質問やアンケートは出来ません。ですから観察や実験を通して、行動学的に実証します。人間の赤ちゃんも言葉を話せませんから、従来は、仮説の検証は出来ませんでした。そこへ行動学的検証方法を導入したのですから、非常に説得力があります。以下に、興味深い点からひとつだけ挙げますので、詳しくは本を読んでください。具体的な実証方法も書いてあります。(『0歳児がことばを獲得するとき』P44〜)
おもしろいのは、おうむがえしの意義です。言葉の話せない赤ちゃんも、「アー」とか「クー」とか「アック」とか「オゥイ」という声は出します。するとおかあさんも無意識に同じ音で応答します。つまり「アック」といえば「アック」と応じるのです。赤ちゃんは初めは、おかあさんの応答が「同じである」ことは理解出来ません。ところがある日突然、「あっ、おかあさんが、ぼくを真似している」と気付くのだそうです。そこで自分も、おかあさんのように真似てみたいと感じて、とりあえず再び声を出す。つまり、赤ちゃんが同じ音を二度つづけて発生する間におかあさんの声が入る形になると、結果として赤ちゃんは、おかあさんの声の「真似ができた」ことになる。そして、おうむがえしのおかあさんの声に対して、ああいうふうに自分の発声系をコントロールすればいいんだ、という学習が萌芽するのだそうです。
  そのあと、01年に『子どもはことばをからだで覚える』が出ます。からだというのはたとえば、声を出す笑いがあります。赤ちゃんが声を立てて笑うときは、最初は空をリズミカルに足で蹴りながら笑うのだそうです。笑いというのは、呼気を断続的に吐き出すことです。つまり足の動きと同期させることにより、呼気を調節しているのです。そして生後6〜7ヶ月になると今度は、声を立てて笑いながら手を激しくうち動かすので、かわいらしさもひとしお増すことになるのだそうです。そしてこの頃から、喃語を喋り出します。喃語というのは「ウワァ・ウワァ・ウワァ……」という言葉にならない声です。このあと基準喃語が現れます。基準喃語というのは「ダ・ダ・ダ」「パ・パ・パ」という子音プラス母音の構造を持つ音で、口腔や舌を複雑に使わなければなりません。
この本では、耳の聞こえない赤ちゃんは基準喃語を喋れない、という研究が紹介されています。外界の声を聞き、自分も同じような声を出しているかどうか聞き分け・練習が出来ないのです。
また、聴力に関する、対になる遺伝子の片方が欠けていても、耳は聞こえます。しかし、父母とも遺伝子の片方が欠けている場合、耳の聞こえない赤ちゃんが生まれる確率は高くなります。そして耳の聞こえる父母は、過渡的な喃語を聞いただけで「話し始めた」と思い、結果として「本当のことば」が出てこない発見が遅れる場合もあります。
ようやく紹介したいP88に近づいてきました。そういった赤ちゃんを注意して見ていると、ダーダーダー……と言い出す代わりに、健聴な子どもであるならばおよそ行うことのないような、微妙で複雑な手の運動が現れ出すというのです。世界各地にある手話に共通する、基本的な表現パターンに対応することから「手による喃語」と呼ばれています。もし、この赤ちゃんの親が手話の使用者である場合、この「手による喃語」は生後9ヶ月以降、急速に発達し、やがて成人の行うサインが生じます。しかし手話使用者が周囲にいないと「手による喃語」は消滅してしまいます。
先に「およそ行うことのないような」と書きましたが、健聴な赤ちゃんでも、頻度は少ないものの、原初的な手の運動は現れるそうです。つまり声による喃語と同時に、手によってあるいは身体全体で何がしかの表出を行っている。そして周囲が音声言語中心の生活スタイルを送っているものだから、声に限定した表出へとシフトし、さらに成長するにつれて以後、身体性の希薄化は拍車がかかる一途をたどるのだそうです。
この本の、一端を紹介しましたが、本のサブタイトルには「〜メロディから意味の世界へ」とあります。音楽の意味、伝統的な「子どもにうたい、話して聞かせる」育児法の大切さを実証しています。正高さんは他にも「いじめを許す心理」(岩波書店)「老いはこうしてつくられる」(中公新書)といった実証的な本があります。

 最後になりましたが、島泰三は「親指はなぜ太いのか〜直立二足歩行の起源に迫る」も説得力はありますが、書き方は全然違います。推理物ふうと言うか、論文ふうと言うか、内容はおもしろいのですが、余りにも論理的なので(論文だから当然なのですが)読むのに骨が折れるかも知れません。彼はアイアイという特殊なサルの研究から、サルの口と手の形、移動方法は、その主食によって決定されることを解明し「口と手連合仮説」と名付けます。この本は、彼の仮説を証明する為に、まず既存の仮説の間違っていることを論駁し、最後に、唯一の仮説として自分の仮説を提示する、という手法を取ります。
  人間の主食は、もともと何であったのか。そして、何のために立ち上がったのか、サルや化石の、手の骨格をもとに、アッと驚く仮説を最期に提示します。ですからこの本の最後をまず読むとか、あるいは私がここに、その仮説を書いてしまえばいいのですが、それでは筆者の苦労がムダになります。推理物を楽しむつもりで、じっくり読むか、あるいは飛ばし読みするか、最期だけ読むか、いろいろな楽しみ方があると思います。

 人間を人間たらしめているものは何か。このテーマに上記の本では、正高さんは「ことば」からアプローチし、島さんは「直立二足歩行」からアプローチしました。
  しかし私が上記の本を読んで思ったのは逆に、人間は人間である前に、動物であるということです。動物として進化の頂点を極めたが、動物から一歩も遊離していない。人間としての様々な悩みや問題も、その解決の糸口は動物の側にあると思います。その意味で、行動学やサル学はおもしろい。正高さんや島さんの幅広い発言を、今後も注目したいと思います。

高橋峰夫