■読者のページ〜2005年1月〜

おせちの話

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

お正月と言えば、食いしん坊の私はおせち。おせちがあれば、お正月らしく過ごせると思っています。ということで、年末はおせちを作ります。黒豆、田作り、数の子の三品に焼いたブリやエビ、お煮染めという簡単なものですが、やはり大晦日の夜までかかってやっと作り終えます。紅白を横目にみながらおせち作り、除夜の鐘が鳴る寸前に夫と年越しそばをなんとか食べ終える、というのがこのところの私の年越しです。それでも、元旦の朝(昼?)に重箱(プラスチックだけど)に詰めてとても豪華になったおせちをみると、お正月らしい気分になり、昨日がんばってよかったなと思います。三が日はおせちをつまみにのんびりできるし、子どもたちも思ったより食べてくれます。子どもが食べてくれるのは意外だったのですが、食べてくれるので作る気にもなります。

簡単なものだけど、こうして私はおせちを作るようになった訳ですが、もともとは全く作る気はありませんでした。子どもの頃、私は我が家にはおせち料理はないと思っていました。でも、お正月には毎年、黒豆も数の子も焼いたブリやエビもお煮染めもあったのでした。品数が少なかったせいなのか、手の込んだ料理がなかったせいなのか、母もうちのお正月料理を「おせち」と言いませんでした。重箱にも詰めてありませんでした。自分で作るようになって思ったのですが、私にとっておせちとは、料理の本や、デパートの広告の写真の重箱に詰まったすごい品数の料理だったようです。そして、そういう料理があまり好きじゃなかったし手が込んでそうだったので、おせちは作らなくていいなあ、と思っていたのです。でも、ある時、黒豆とごまめと数の子の三品があればおせちになる、と何かで読んで、これなら作れそうだし食べられそう、と思って作りはじめたのでした。そして、三品に子どもの頃食べた母の「おせち料理」を加えて、我が家のおせちを作っています。

さて、この年末は娘もおせちを作りました。といっても本物ではありません。トイレットペーパーの芯やスポンジや折り紙などで作る工作です。「みんなで つくる ふゆのかざりもの」という本をみて作りました。クリスマスとお正月をテーマにした工作が写真で紹介されているのですが、デザイン、材料などが子どもの手の届く範囲で娘にとってとても魅力的だったようです。中でも、おせちが気に入ったようで、はじめに図書館で借りた時はクリスマスの準備の頃だったにツリーやリースには目もくれず、おせちを作り始めました。我が家のおせちにはない、伊勢エビや昆布巻きなども作っていました。毎日作る訳ではないし品数が多いので日数がかかり、本の貸し出しを延長して返却してまた借りたりしました。それでも完成しなかったので、この本をクリスマスプレゼントにしたら娘はとても喜んでくれました。

おせちも工作も完成度が高いものはきれいで素晴らしいです。でも、作れなかったり作るのがしんどくなってはつまりません。少々手抜きだったり、雑だったりしても、作る楽しみを味わいたいな、と思います。これから、まだ寒い日が続きます。お家の中で過ごす日も多いでしょう。そんな日は子どもたちと何か作って楽しむ時間を持ちたいです。

大林ハル

少女マンガになり損ねた(?)アニメ
〜原作『魔法使いハウルと火の悪魔』アニメ『ハウルの動く城』〜

(1)原作のおもしろさ

D.W.ジョーンズの『魔法使いハウルと火の悪魔』(原書の題は『ハウルの動く城』)がアニメになると聞いたとき、この本は、複雑だが細部まで非常によくできた話で、アニメの台本にそのまま使えるので、ぜひ原作通り作って欲しいと思いました。ただ、話が長すぎるのと、あの宮崎監督が原作通りに作るわけがないので、せめて二点だけは考慮して欲しいと思いました。

まず、主人公の老婆の正体が実は若いソフィーだということを、いつ周りの人が知ったのか、その伏線をどう張るかが、アニメの魅力になると思いました。大変ですが、そのことに気付いたソフィーが、怒りまくる活劇場面が描けます。ぜひアニメに入れて欲しい。

次に、この本の登場人物は大抵、裏の顔を持っています。つまり二重構造になっているのです。魔法使いと火の悪魔の二重構造、レティーとマーサの二重構造といった例です。これに呪いが何重にもかけられていると、更に複雑になります。サリマンとジャスティンの二重構造に、パーシヴァルとかかしの二重構造が重なります。若いソフィーは魔法使いの呪いで老婆になり、その原因にはレティーとソフィーが二重に関わるなど、きりがありません。あまりにも複雑すぎてすぐには頭に入りません。

この本はハウルとカルシファーの契約の謎解きが魅力の一つなのですが、面白いけれど私には馴染みにくい本でした。原因の一つはイギリスの人名が飛び交うこの複雑さにあるのでしょう。「読み出したらやめられない魅力的なファンタジー」とカバーにありましたが、この本をすらすら読める子どもがそんなにいるとは思えません。もっともカバーの下にはBFTとありました。BOOKS FOR TEENAGERS の略だそうですから、中学・高校生が対象なのでしょう。私は外国の推理小説を読んでも頭がごちゃごちゃになりますから無理もありません。逆に言えば、映像化すれば頭に入りやすくなるので、アニメ向きだとも言えます。馴染みにくい理由はもう一つありますが、それは後で述べます。

さて、この二重構造の中で最も重要なのがハウルの行動世界の二重構造です。つまりインガリー国に代表される魔法の世界と、ハウルの寝室の窓から見えるウェールズの現実世界の二重構造です。ハウルはこの二つの世界を行き来する者であり、他にも現実世界から魔法世界に行った者がおり、また魔法世界から現実世界に進入する敵もいます。そして現実世界のジョン・ダンの本物の詩が、魔法世界ではそのまま呪文になるというすばらしい二重構造、その呪文の謎解きの魅力、謎解きの過程で推測されるハウルの原体験、確かに読み出したら止められません。

ここに宮崎監督に考慮して欲しい第二点があります。つまりこのウェールズの現実世界をどう描くかです。ただでさえ複雑な世界をより複雑にするこの構造は、この本の最大の魅力です。アニメでどうさばくか、まさに監督の力量が掛かっています。

(2)宮崎監督のアニメ

ところが宮崎アニメでは、考慮して欲しい二点は、両方とも見事にカットしてありました。つまりアニメのストーリーにはないのです。

まず第一点です。ソフィーが老婆ではなくて若い娘であることを誰も知らない、と思っていたのに、みんなが知っていると分かったとき、しかもその驚きの会話をハウルたちに立ち聞きされたと分かったとき、ソフィーの怒りは頂点に達します。しかし怒りだけではないはずです。恥ずかしさ、情けなさ、間抜けさ、嬉しさもあったと思います。この様々な感情を表現するには、アニメは格好の手段です。いろいろな解釈・表現が可能です。アニメの魅力を十分に発揮できるはずでした。ところがアニメのソフィーは、夜寝ている間は元の娘に戻るのです。他にも様々な場面で老婆の顔と娘の顔が工作します。マンガではよくある手法ですが、馴染みのない観客の場合、どう解釈していいか戸惑うようです。

第二点の、現実異世界もカットされています。つまり魔法世界で完結しているのです。カットした理由は、二つぐらいは想像がつきます。一つめは複雑になりすぎて手に余るということです。なにしろ『もののけ姫』を簡潔にするために、たたら場のシーンでは夫婦はいても子どもは一人もいない世界を作る監督ですから。

もう一つ、ウェールズにはハウルの姉や甥姪が住んでおり、当然、自動車やテレビゲームがあります。ハウルについて来て、ウェールズを覗いたソフィーは、現実世界の方が魔法の世界に見えます。(この裏返しの構造のアニメ化を楽しみにしていたのに残念です)ハウルが甥のニールに新しいゲームをあげると、ニールは説明文を読み上げます。「きみは四つの扉のある魔法の城にいる。扉ごとに通じている次元が違う。ひとつめの次元では城は絶えず動いており、常に危険にさらされ……」ソフィーは階段に向かいながら、なんとなく聞き覚えがあるなと思います。ここにインガリー国の秘密の一端があります。しかし監督はこの二重構造は日本では陳腐だと感じたのでしょう。確かにアニメでは使い古された手法です。しかも監督は、アニメ的思考法の危険性を指摘しています。しかし、上記の二点をカットしたことにより、原作の大幅な改ざんを余儀なくされるのです。

(3)ハウルは少女マンガの主人公(?)

このアニメにはいろいろ不満もありますが、発見もありました。そしてこの本に馴染みにくい理由も分かりました。一つはハウルに感情移入しにくいことです。でも、ソフィーは魅力的です。喜怒哀楽がはっきりしていて、明るく活動的です。そのソフィーが、ハウルなんかに好意を持つ理由が分かりません。やさおとこで、女の尻を追いかけ回し、ゲーム感覚で恋をする。羨ましい面があるかもしれませんが、そんな男に引っかかる女の気が知れません(本当は魔法で引っかけているので、しょうがないのですが)。浴室に二時間も入り、イヤリングをちゃらちゃらさせているような(アニメでも原作でもイヤリングをしています)男は、主人公にふさわしくありません。「本に手を伸ばしたときに見えた先生の体の線に目を奪われながら、ハウルが訴えるよう言いました」児童書なのに、こんな描写もあるのです。(と、書きながら描写を楽しんでもいるのですが)訳者あとがきに「女性や少女の英雄の出現に関心があったジョーンズでしたが、初期の作品ではあえて女性を主人公にしなかったのは、七十年代の読者、ことに男の子たちにそっぽを向かれる危険性があったためだといいます。その意味では『九年目の魔法』は、ジョーンズが八十年代のフェミニズムの隆盛に力づけられ、念願通り女の子を活躍させた話です」とあるのは、当たっているでしょう。

というようなことに気付いたのは、アニメでベティちゃんみたいなレティーを見たときです。(アニメではレティーとマーサの二重構造はカットされています)その時やっと(あ、これは少女マンガだ)と気付いたのです。そう考えれば私の馴染みにくい細部の過剰なまでの描写やファッションの描写が理解できます。日本のマンガから見れば、男の子と女の子の読者は完全に別れていて、ハウルの物語のような恋愛を主題にした少女マンガは珍しくありません。さすが少女マンガと児童書に詳しい宮崎監督です。

となると、このジョーンズ念願のハウルの本が、日本の男の子に受け入れられるかですが、(外国では受け入れられているのでしょう。この本の扉に「少年のため書いた」と作者が明記しているのですから)男の子は少女マンガをほとんど読まないので、かえって心配です。宮崎監督もその点は心配だったのでしょう。

(4)少女マンガになり損ねたアニメ

原作の売れ行きは(株)徳間書店児童書編集部に任せるとして、アニメは市場が大きいので、少女マンガに徹しても売れたと思います。ところがスタジオジブリは(ジブリの正式名称は(株)徳間書店スタジオジブリ事業本部)『千と千尋の神隠し』の観客動員数を更新せねばならない運命にあるのでしょう。(2)の二点をカットしたことにより、原作の大幅な改ざんを余儀なくされて、従来の男の子向けの活劇路線を取り入れます。つまり原作にない戦争シーンを入れたのです。(原作には「敵国高地ノーランドおよびストランジアが今にもわが方に宣戦布告しようとしている情勢」とあるだけです)。この変更が、次なる変更につながります。原作はハウルと荒地の魔女の戦いが主題だったのに、女魔法使いサリマンとハウルの戦いになります。しかも戦いの原因がよく分かりません。また、この戦いと戦争は関係ありません。戦争はインガリーの王様が隣国と始めたらしいのですが、隣国がどんな国か一切分かりません。サリマンとハウルはインガリーの国民ですから、敵国と戦っているらしいのですが、同時にサリマンはハウルを捕まえようと襲ってきます。サリマンの目的はハウルですから、ソフィーは関係ないはずですが、ハウルは「守るべきものが見つかった」と言ってソフィーを守ろうとするのです。空襲のシーンはリアルです。宮崎監督も空襲を体験しているはずです。そもそも今年の封切り映画になぜ戦争シーンが必要なのか分かりません。そしてこの戦争はサリマンが「どれ、このばからしい戦争を終わらせに行きましょう」と言って、腰を上げて終わるのです。何を意味しているのか分かりません。

ラブロマンスを期待している人には、戦争シーンは邪魔なだけです。少年マンガを期待している人には、軟弱なハウルのシーンはいりません。両方の人に配慮した結果、両方の人が物足りなく思ってしまいます。

さて、原作の最大の謎は、ソフィーがなぜ、荒地の魔女に呪いをかけられたかです。原作では。それなりの原因は書いてありますが、よく分かりません。

アニメでは、なぜ呪いをかけられたのか、まるっきり分かりません。荒地の魔女がソフィーに「ハウルによろしくね」と言ってますから、ハウルのところに行かせるために老婆にしたのかもしれませんが、ハウルは最初からソフィーの正体を見抜いているのですから、意味がありません。ソフィーを手がかりにして、ハウルの居所を探ろうとしたのかもしれませんが、何も知らないソフィーをハウルのところに送り込めるなら、最初から居所だけは分かっていなければなりません。それにアニメでは、ハウルを探しているのは、サリマンなのです。

結局、このアニメは非常に分かりにくいストーリーになっています。レティーやファニーはベティちゃん風に描かれていますので、アメリカのアニメを意識しているのでしょうか。それにしても宮崎監督にとって、原作はアニメの素材だったはずです。素材として活用し、結果、原作よりも良い物を作り出してきました。つまり未完成の原作の方が、素材に適しているということです。ジョーンズの原作はあまりにも完全すぎたため、ダイジェストしにくく、結局原作をぶち壊してしまったのかもしれません。力負けと言えましょうか、オリジナルの方が強いと言うことでしょうか、私には分かりません。

以上、辛口の批評になってしまいましたが、原作を考えずに、アニメだけを観れば、それはそれで、楽しめる作品になっています。それに前に触れたように、映像化すれば頭に入りやすくなるので、アニメのあとで原作を読む人は、かえって読みやすいかも知れません。オリジナルのストーリーで、二度楽しめる事になりますので、ぜひ原作も読んでください。

高橋峰夫