■読者のページ〜2003年3月〜
★ハドリアンズ・ウォール(Hadrian's Wall)(ハドリアヌス防壁)にて

小高い丘の上には、石積みの質素で無骨な塀が数百メートルにわたって、静かに眠っているかのように伸びています。この壁の残骸の北の向こうには緑の牧草地広がっています。どんよりとした雲の中、さっきまではやんでいた雨がまた降り始めました。

ロンドンからは北西に、エジンバラからなら真っ直ぐ南に下りた海の傍にカーライル(Carlisle)という中規模の町があります。ここからハドリアンウォールに向かいました。塩野七生さんの『ローマ人の物語』の影響を受けたためであり、2002年12月28日のことでした。

初代ローマ皇帝アウグストゥスが就任した紀元前27年より約140年後の紀元117年、養父であった皇帝トライアヌスのあとを継ぎ、スペイン地方生まれのハドリアヌスが第14代皇帝として即位 します。皇帝ハドリアヌスの時代は、紀元138年まで約20年間にわたっていますが、その3分の2の期間、彼はローマ帝国内の各地を視察・巡回しました。

そのころのローマは、領土拡大も頂点まできていて、攻勢から守勢に転じる時期でもありました。ただ、ローマ人一般 としては、どこまでも領土の拡大を思っていたのですから、そこを国民の感情を逆なでることなくうまく方向を転じて守備の強化にもっていったのがこの皇帝でした。

当時イギリスは、ローマの属州でした。その北の防衛ラインとして、実際彼自身がここにきて、紀元123年に築きはじめたのがハドリアンズ・ウォールでした。

緑の草に覆われたなだらかな起伏は、見た目はなだらかでも歩くとなるとかなりの高低差があります。車の標識でも14%勾配(だったかな?)とあり、歩くと登りではかなり疲れます。登り終わって、歩いてきたほうを見ると、遠くまで見渡すことができます。

このあたりを見て回るにはある本にあったように、車だとすごく楽です。でも私、国際免許はないし、冬にはバスツアーも出ていません。カーライルのツーリスト・インフォメーションのおばさんに「自力で、向かうしかない」といわれて自力で行くこととしました。

定期バスの通る道を地図でみて、壁から一番近くにあると思われるグリーンヘッド(greenhead)で降りることとしました。カーライルから東へバスで30分ほどのところです。ここからなら、およそ1キロメートルほどで壁に到達できそうでした。グリーンヘッドは田舎町です。高速道路の脇にぽつんと立つ小さな町……町とまでいえない集落です。

この時期でも青々とした緑の牧草の間に伸びる舗装道を登っていく。
両脇の牧草では羊達が草を食んでいます。時折、羊達は見慣れないものが通 っていくと、いぶかしげに私をしばらく見つめたり、かけて逃げ出したりします。

田舎のようでも、この道は車がときおりスピードをあげて通っていきます。歩道などないのですから、その度ごとに道の脇で立ち止まって車をやり過ごします。

1キロほど坂を登り、ハドリアンズ・ウォールの博物館に到着します。もちろん冬場の今は、あいていませんし、夏場ならあるバスも来ていません。で、壁はどこにあるのでしょう。地図ではこの辺にあるらしいのですが見当たりません。

少し行くと池のある公園があります。そのなかを通り抜けて、緑の間の道を歩いていきます。本当はこの牧草地は、個人の所有なのですが、その中にパブリックパス(public path/公的な道)があって、そこなら通ってよいようになっているのです。とはいえ、道らしいものはなく今の時期、誰かが通 ったかすかに残る痕跡を道と見てたどっていくこととします。羊の丸い糞もあちこちに固まっています。

そして、やっと壁が見えます。とはいえ、壁の残骸です。でも、ここは数百メートルにわたって、今でも石の防御壁が残っているのです。万里の長城みたいにずっと何キロにもわたって続いて、残っているというものではありません。

石を積み上げた壁で、高さ2メートル、厚さ1メートル弱の基礎的な簡単な造りのものです。所々崩れています。このあたりの羊の牧草地に使われている石の壁をちょっと大きく頑丈にしたようなだけの壁です。石は、この周りで取れるようです。現地調達の石みたいです。


ローマ時代は本当はこの壁と、壁の内側の塹壕などをあわせてセットで、防壁といっていたようですが、塹壕の状況は今ではよくわかりません。この壁は西のカーライルのあたりから東のキャッスル・アポン・タインのあたりまで、まるで英国に首輪をかけるように長々と築かれていたらしいです。そして、ローマの北からの敵に対して守るとともに威圧していたのでした。

ハドリアヌス皇帝は、イギリスの防衛線をこことし、これ以上は北には行かないとしたわけでした。また、4キロほどの間隔で物見やぐらのような要塞があったようです。今は、その土台らしきものが残るだけです。(日本語の説明は、こんなところでもありました)

ここは丘の上にあり、あたりはなだらかな平原ゆえさえぎるものはなく、はるか北の遠くまで、ここからは見渡せます。およそ1900年前ここでローマの兵士達は、守備についていたのですね。

この日も雨でした。雨が多くじめじめした日々を彼らはどのような気持ちで守りについていたのでしょうか。

緑の平原は、見た目のなだらかさが当てにならないと書きましたが、もう一つ裏切られることは、ぬ かることです。緑に見えても、草の間に水を蓄え、この雨の時期 (?)など、思いのほか地面 はびしょびしょなのでした。この日も、ぐちゃぐちゃと音を立てながら水溜りを歩いていかねばなりませんでした。それになにもさえぎるものがないのですから、冬は寒かったでしょうね。

ローマ時代が終わり、守る者もいなくなると、その防壁の石は、かってに家や建物に使われてしまったのだそうです。だから、今では、連続もせず、その一部しか残っていないそうです。塩野七生さんの本によると、ローマ帝国というとかなり悪役的な感じで扱われる傾向があるのだそうですが、これはキリスト教の影響なのであって、実際はそうではなかったそうです。一神教であるキリスト教により、多神教でもあったローマ時代の多くの遺産が破壊されてしまったそうです。なんか残念ですね。

ここ以外にも東の端までに、壁の残っている所々に当時の風俗などを扱ったりのいろいろな博物館などがあります。それらを見回るには、やはり夏の時期にきてツアーに参加するか、自分で車を運転するしかないようです。壁から下り、牧草地の舗装された道を歩いていると、なにやら牧草地の針金の柵に20ばかり小さな黒いものが吊り下げされているのを見つけました。モグラの死体でした。畑に悪さをするので捕まえたものなのでしょうか。なんともイギリス的、ではないですか?帰りのバスは2時間に1本くらいなので、それにあわせて先ほどの坂を下りていきます。雨の後、珍しく太陽がほんのちょっと顔を出し、それにより大きく出た虹、緑の牧草地の上にきれいな半円を描いてました。

(文責:新明)