
つい先日、本棚を整理していたら学生時代に読んだ高村光太郎の『智恵子抄』が出てきました。久しぶりに会う友人のような、なつかしさと同時にあのころとはちがった感動をおぼえました。 彫刻家高村光太郎の妻、智恵子は精神を病んで昭和9年5月から12月まで九十九里浜の真亀海岸にある妹夫婦の家ですごしています。光太郎は毎週東京から彼女を見舞ったと『九十九里浜の初夏』にありました。ちょうど5月の松の花のさかりの時期で防風林の黒松の花粉が黄塵(こうじん=黄砂)を想像させる……とドラマチックに描かれています。今回はひとりで智恵子の面影を追ってみたくなりました。
わたしは新緑の大網街道を車で走ってみました。アップダウンのはげしい千葉市内を出て大網までくると見渡す限りの九十九里平野が広がり、水を張ったばかりの田んぼが続きます。そして景色に飽きてきたころに海岸通りに出ました。 71年前、この道筋を幾度となく光太郎は東京から大網まで汽車に乗り、そこからバスを乗り継いで真亀海岸に通いました。真亀海岸は太東崎から銚子までおよそ70km続く九十九里浜の中ほどにあります。現在は海に向かってそびえたつ国民宿舎「サンライズ九十九里」の前の海岸ですが、当時は鰯の漁場のさびしい漁村であったようです。 いまでは防風林の松は少なく、今回訪れたときは松の花もまだ早いようでした。海岸への狭い道をぬけると目の前にはさえぎるもののない九十九里の海がひろがっていました。
天気のよいおだやかな日でしたが、平日だったせいか海岸にはほとんど人はいませんでした。白い細かい砂、青くどこまでも続く海、波にけぶる景色。風紋に海鳥の足あとがついています。ちい、ちい、ちい……と千鳥が智恵子の名をよびます。智恵子はここで鳥と遊び、彼女自身も両手をひろげて鳥になりました。鳥になった智恵子を浜にあそびにきたこどもたちがはやし立て、光太郎は後を追って智恵子についた松の黄色い花粉をはらってやるのでした。 わたしも智恵子になれるかと智恵子のように貝を拾って、手のひらにのせてみました。でも、千鳥は寄ってきません。しばらく目の前に広がる海を見ながらぼうっとしていました。ちい、ちい、ちい……千鳥は鳴きますが鳥たちが一向に近づいてくる気配はありません。浜辺にはたくさんのヒメバカガイが打ち上げられていました。九十九里ではふつうに見られる殻のうすい親指の先より少し大きいくらいの貝です。 『智恵子抄』では智恵子が持っている貝を千鳥がねだり、智恵子がそれをぱらぱらと投げたそうです。ほかにも貝は拾えますが、鳥が食べやすいのはこの貝だと思います。少し出てきた風に風紋から砂が舞いあがります。
智恵子は8ヶ月の療養でからだは丈夫になったものの脳の変調は進み、「光太郎智恵子光太郎智恵子」と彼女は1時間も連呼するようになります。この時期、光太郎の父、光雲が病に伏していて、やがて亡くなります。光太郎は二人の看病をしながら創作するというつらい現実のなかにいました。智恵子のように自由に飛びたかったのは、あるいはいっしょに飛んだのは彼自身だったのかもしれません。 智恵子は光雲の死後、東京に戻り入院します。都会の生活が苦手な智恵子にとって自由であったのは九十九里の浜辺だったのかもしれない、と人気のない海岸で波の音を聞きながら思いました。九十九里の智恵子を詠んだ『風にのる智恵子』、『千鳥と遊ぶ智恵子』の詩はいずれも東京に帰ってからのものです。(『千鳥と〜』の詩はなんと3年後に詠まれています。)
寝る前にこどもたちに『風にのる智恵子』、『レモン哀歌』、などを読んでやりました。長男は「智恵子がかわいそうだ」といい、次男は「レモンをかじったら酸っぱいよね」といいました。まだそんな感想だけか、と思いつつもかなり印象には残ったようです。 高校時代、模擬試験の問題に『梅酒』が出題されて思わず涙ぐんでしまったことを思い出してしまいました。智恵子や光太郎の年齢に近づいたせいか、「うつくしい夫婦愛」だけでない「文字にするにはむずかしい感情」が隠されているのではないかと感じました。いまそのテストを受けたらマークシートを素直に塗りつぶせないかもしれません。
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