■親子で楽しむ千葉の歴史〜2004年4月〜



江戸時代の宮野木村・15

長い間ご紹介してきました江戸時代の宮野木村は、今日で最終回です。今回はいよいよ私の住む宮野木に昔あった村を、宮野木村に江戸時代から続く古い家の郷土史家、黒川日出松さんに一緒に歩いていただいて、調べました。

古い地図でみた村の形

宮野木村だけの江戸時代の古い地図は、みつけることができませんでしたが、園生村と一緒に出ている江戸時代の地図は、第11回の園生村の回で紹介しました。その場所は、上のタイトルの地図のように、今私が通 っている宮野木小学校のある場所ではなくて、バス通りを稲毛駅のほうに行って、京葉道路にかかる宮長橋を渡って右手、レストラン夢庵の先ぐらいのところです。黒川さんは、「昔の宮野木村は、地蔵院を中心にして、せいぜい50軒くらいの農家が集まっていただけでした」とおっしゃっていました。私の住む宮野木小のあたりは、林か田んぼでした

小中台村はだれが治めていたか(村長さんはいたのか)

宮野木村は、徳川家康の旗本の赤井氏と、やはり徳川家康の旗本の中山氏の二人の領主がいて、村の家々もその二つに分かれていました。

どんな人が何人ぐらいいた村だったか

安政2年(1855)には、宮野木村には44軒の家があり、男の人135人、女の人138人、合計273人の人が住んでいました。馬は全部で11頭いました。江戸時代から黒川日出松さんの子供のころまで、家の数はかわっていなかったようです。

何をして暮らしていたか(産業は?農業?)

水田で稲をつくり、畑で薩摩芋をつくり、山でまきを採ってくらしていました。

黒川さんと宮野木村をあるく

3月7日の日曜日、とてもいい天気でした。この日、黒川さんに昔の宮野木村を案内していただきました。

黒川さんの家と昔の宮野木村
黒川さんのお家は、地蔵院のそばにあります。とても大きな古い家で、裏手には竹やぶがあって、しいたけができています。お庭に、古い石の祠がありました。

寛政九年九月吉日(1797)

と刻んであります。これは水神様だそうです。こんなに古い祠がお庭にあるなんて驚きました。すると、黒川さんは、この辺の古い家にはどこにもこのような神様があるとおっしゃっていました。黒川さんの家を出て、通 りを渡ると同じ黒川さんという苗字の家があります。そのお家の庭と竹やぶを通 ると、そこは地蔵院です。
地蔵院
1:本堂
昭和40年代までは、江戸時代の古いお堂がたっていたそうですが、今は新しい立派なお堂が建っています。黒川さんに案内していただいて本堂に入ります。真ん中には、ご本尊の地蔵菩薩がいます。隣の部屋には、不動明王など、たくさんの古い仏像がありました。多くは江戸時代のものですが、驚いたことに、室町時代のものもあるそうです。お地蔵さんの上には、「地蔵院」刻まれた木彫りの額が飾ってありますが、これは黒川さんが彫ったものだそうです。

2:弘法大師
本堂には、お地蔵さんがいましたが、右の方にある小さなお堂の中に、弘法大師様が座っています。この像は、長福寺の14個の石像と同じ姿で座っています。このお寺は、犢橋村の神照寺・長福寺と同じ真言宗のお寺だということです。

3:巡礼の記念碑
この神社にも、犢橋村の三社神社にあったのと似た巡礼の記念碑があります。でも、ここにあるのは秩父三十四ヶ所の記念碑だけで、伊勢大神宮と出羽の月山・羽黒山・湯殿山はありませんでした。形も、犢橋村の三社神社にあった出羽三山の記念碑と違って、「秩父三十四ヶ所供養塔」と書いてあり、お墓のような形です。全部で8個ありました。江戸時代のものは

嘉永七年十一月吉日 (1854)

のひとつだけで、後は明治時代より後のものでした。

明治25年(1892)
明治29年(1896)
明治44年(1911)
大正 7年(1918)
昭和12年4月13日(1937)
昭和13年4月21日(1938)
昭和38年3月15日(1963)

3: 石の手洗い鉢
ひっくり返ってしまっていましたが、古い石の手洗い鉢があります。そこには、造った日付が刻まれています。

天明元年四月三日(1781)

4:古いお墓
このお寺にも、たくさんの古いお墓が残っています。どのお墓にも、必ず立てた時の年月日が刻んであるので、どのくらい古いものかすぐわかります。

貞享二年十二月十一日 (1685)
元禄十五天四月十六日 (1702)
享保十五年六月十八日 (1730)
安永三年十二月十三日 (1774)
安永十一年三月朔日  (1782)
天明五年九月三日   (1785)

元禄15年は、その年12月14日に赤穂浪士が吉良邸に討ち入った忠臣蔵の年です。5年くらい前にNHKのドラマで見てよく覚えています。その301年後の同じ日は私の誕生日です。

愛宕神社

地蔵院の本堂の横を通って、丘に登ると、そこは愛宕神社です。この神社の中にも黒川さんが彫った竜の彫刻が奉納されています。
1:由緒
愛宕神社略記 当神社の詳しい由緒はあきらかではありませんが、京都の愛宕山頂に鎮座する愛宕神社を本宮とし、火の神迦具土神を祀る神社であると伝えられています。おなじ宮野木地区に鎮まります甲大神とともに当地区の氏神として、人々の厚い崇神の念を受けています。

2: 石の手洗い鉢
石の手洗い鉢には、次のように刻んであります。
願主 清宮重右衛門 嘉永三年十二月吉日(1850)
清宮という苗字は、今でも宮野木に多い名前です。
大通り

愛宕神社を出ると、広い通りに出ます。黒川さんは、この通りが昔から村の中心の大通 りだったとおっしゃいました。しばらく歩くと、三人の男の人と会いました。あいさつをしてすぐ別 れましたが、黒川さんは、「今の人たちは、昔の奥州まいりの世話人で、二年に一回出羽の山からやってくる神主様を迎えて、一緒に村の家々を回ってお札を配ったり拝んでくれる」とおっしゃいました。最近は出羽にお参りに行くことは昔のように盛んではなくなったそうです。今でも奥州まいりのお世話係の人がいるなんて、すぐ近くでも昔の村があったところと、私が住むあたらしい住宅街とは全然違うなと思いました。

甲大神
宮野木の鎮守さまは、甲大神です。

町探検で、4年生の時に行きました。お父さんは、子供のころこの神社がすきでよくあそびに行ったそうです。そのころは、とてもとても大きな松の木が4本あって、ずいぶん遠くからも見えたのだそうです。その松の木も、お父さんが中学生くらいの時に皆枯れてしまったそうです。

1:由緒 ここにも、由緒がありました。それには

甲大神(かぶとおおかみ)略記
当神社は、大己貴神〜オオナムキカミ(大国主神〜オオクニヌシノミコト)を主神とし、他に8柱の神を相殿に御鎮座申しあげています。具体的創立年は不詳でありますが、灯篭に文政十年(第11代将軍徳川家斉治世下)とあり、江戸時代後期以前より御鎮座され、崇敬を集めていたことが分かっています。江戸時代以前には当地に甲大神以外の小さな社祠が各地区に数多く御鎮座されていましたが、時代の流れに従い明治期に至って当神社に合祀奉遷され、同域内にお祀り申し上げています。

と書いてありました。

2:馬頭観音といろいろな神様

境内には、疱瘡神や第六天、大山神や吉峯神などいろいろな神様の祠があります。黒川さんは、村の中のいろいろなところにあったものを集めたものです、と教えてくださいました。その中で、見たことがない神様がありました。

       大天狗
水 小御岳石尊大権現
       小天狗

と刻んであり、横には

蔓延元年庚申四月(1860)
宮野木 先達 庄右エ門
    与平
世話人 又右エ門
    伝右エ門

と名前が彫ってあります。萬延元年は、丁度今やっているドラマ新撰組の時代で桜田門外の変があった年です。

境内の南はしに、馬頭観音がいくつか立っています。古いものは江戸時代のもので

宝暦八戊寅二月吉祥日 若者中(1759)


と刻んであります。

明治時代の馬頭観音には

徴発 馬頭観世音 明治廿八年(1895)
徴発 馬頭観世音 明治四十年(1907)

と刻んであります。と刻んであります。徴発とは、戦争のときに軍馬として村から馬を連れて行ってしまうことです。明治二十八年のものは日清戦争、明治四十年のものは日露戦争の後ぐらいの時のものです。

黒川さんは、「馬はただ連れて行かれてしまうのではなくて、第二次大戦のときは一頭三円とか五円とかをもらえます。でも、徴兵の場合はお金などなく、ただ一銭五厘のはがきで戦争に行かされてしまったのです」とおっしゃいました。黒川さんは、昭和11年に朝鮮に渡って、昭和18年に中国の大連の鉄道連隊の兵隊さんになりました。

3:観音様と十九夜講中

神殿に向かって左のほうに、暗い林の中、観音様の石像が4つあります。お父さんの子供のころは、この石像は神社の外、日のあたる道端にあったように覚えているそうです。刻まれている文字を、光をあてて読んでみます。とても難しい漢字なので、お父さんに書き写 してもらいました。

奉造 如意輪観世音二世安楽之祈
元禄五天十月十九日施主四十九人 (1692)

奉修 十九夜念佛浩衆三十四人宮木村
宝永四年今月今夜   (1707)

造立 十九夜念仏同行六十九人
延享十六年十月十九日 (1744)

みな、19という数字に(十九夜、十九日、四十九人、六十九人)に関係しているようです。宝永四年のものは、今月今夜としかかいていませんが、今月今夜ということは、書かなくてもわかるということでしょうか。おそらく他のと同じ十月十九日に立てられたのではないでしょうか。江戸時代の村人は、十月十九日になにか特別 なことをしていたと思います。 願をかけて像を作った人の人数も、多いです。この村には、安政2年(1855年)に273人しか住んでいませんでした。その百年くらい前の宮野木も、そんなに変わっていないでしょうから、270人の中の69人や49人、34人は、とても多くの人が参加したなにかのあつまりのようです。

4:奥州まいり巡礼の記念碑

この神社にも、犢橋村の三社神社にあったのと同じの巡礼の記念碑があります。でも、ここにあるのは出羽の月山・羽黒山・湯殿山の記念碑だけで、伊勢大神宮と秩父三十四ヶ所はありませんでした。

宮乃貴大神宮

甲神社から地蔵院に向かっていく途中、すこし坂を下ったところに、宮乃貴大神宮がありました。林の中には石の祠がいくつかあります。宮乃貴という字が宮野木とちがっていて不思議です。黒川さんのお話では、この神社は個人の人が立てた神社だそうです。

黒川日出松さんにご案内いただいた宮野木村の散歩は、とても楽しかったし、勉強になりました。昔のことをよく知っている黒川さんから、いろいろなお話が聞けてよかったです。最後に黒川さんはしいたけとぎんなんをたくさんくださいました。

感想

私は、江戸時代の宮野木村を調べることが出来て、とても楽しかったです。なぜかというと、江戸時代のこの辺の村々のことがよく分かったからです。最初は、江戸時代の地図が見つかるかどうか心配でした。でも、図書館や公民館の図書室で調べれば調べるほどいろいろな地図や本が出てきたので、安心しました。それと江戸時代の人たちの作った地図の正確さに驚きました。江戸時代の人たちは、えらいなーと思いました。今の人たちは機械やコンピューターに頼りすぎていると思います。

昔村だったところを歩いて見ると、今私が住んでいる宮野木小学校の周りとは全然違います。道は細く、曲がっていて、田や畑があって、大きな木があって、そして古いお寺や神社がありました。少しだけ江戸時代の村を歩いている気分になれます。そのような村の古いお寺や神社には、やはり古くて不思議なものが残っていました。

神照寺という、今はもうない犢橋のお寺の跡を、江戸時代の犢橋村の地図を見ながら探し当てたときは、本当にわくわくしました。一番楽しかったです。村を歩いた後は、分からないことや不思議なことを調べました。中央図書館には、本当にたくさんの本があって、分からないことも調べられました。これで終りにしないで、これからもこの研究は続けるつもりです。今まで『江戸時代の宮野木村』を見て下さった皆様、本当にありがとうございました。

父親より

エルフのホームページで、郷土史家の畑中雅子様による『親子でたのしむ千葉の歴史』を毎月興味深く拝読しておりましたところ、長女が「この宮野木には古い神社やお寺はないの?」と聞いてきました。私が宮野木に引っ越してきた昭和43年は、まだまだ山や野が多くて、住宅もまばらでした。そうした子ども時代に遊んだ、鬱蒼とした林の中にひっそりとたたずんでいた古い神社や野の仏のことが思い起こされてきました。もう何十年も行っていない、そうした場所を、子どもと訪ねてみたいと思いました。これが二年前のこと、それが子どもの小学五年生の夏休みの自由研究の宿題になりました。もったいなくも、この自由研究が、エルフ阿部様のご厚意と畑中様のご指導を得て、このホームページの末席を汚すこととなってしまいました。

当初はかくも長く続けさせていただくとは想像もしませんでしたが、連載期間中は、タイトル『親子でたのしむ千葉の歴史』の通 り、親子での共同作業でした。昔の子どものほうが外遊びの行動半径が広く、そもそも私は一年生のときは2kmはなれた園生小に通 っていましたので、ご紹介した社寺はほとんどがなつかしの遊び場所です。三十数年前と変わらぬ 場所もあり、また昔の面影をとどめぬほど様変わりしてしまった場所もあります。

そうした中、親として心がけたことは、「車や自転車にたよらず、歩いて訪ねる」「そこに残されているものを注意深く観察して、江戸時代の人たちの暮らしを感じる」ことです。子どもは子どもの見方として、私からは想像もできないものの見方で観察して、または石に刻まれた文字を写 し取り、図書館の古地図や文献と付き合わせる。そして、実にささやかではありますが、新しい発見がある。江戸時代の村人たちを身近に感じる瞬間がある。それが親子を夢中にさせました。

先月8日の日曜日の、宮野木の郷土史家・黒川日出松氏との村歩きが最後のフィールドワークでしたが、宮野木村・犢橋村・園生村・小中台村、そして当初の予定にはなかった稲毛村、そしてホームページには紹介できませんでしたが、長沼新田や畑村の各村を本当によく歩いたと思います。私にとっても実に楽しく、発見にみちた作業でした。

この楽しさを極力お伝えしたいと願ったのですが、力不足から冗長かつ論旨不明な点も多く、各位 にはご心配とご迷惑をおかけいたしました。そうした中、エルフの阿部裕子様、構成について監修いただきました吉田様、郷土史家の畑中雅子様、宮野木の黒川日出松様のご指導に深く感謝申し上げます。

また、採集した遺物について鑑定等いただきました加曾利貝塚博物館副館長の村田六郎太様、慶応大学文学部民族学考古学研究室の桜井準也先生、朽木量 先生、藤山龍造先生、三浦市の発掘調査現場で近世ゴミ塚についてご教示くださいました三浦の塚研究会の皆様に、厚く御礼申し上げます。

(神田まどか)