■会留府のこと〜2004年6月〜

5月からはやくも梅雨のようなお天気、梅雨は嫌いではないが、今年は風の強い日が多く、また声が出なくなった。会留府は新年度がはじまり、あわただしい日をすごしている。店での仕事のほかに学校図書館に納品しているので、5月から忙しくなる。

千葉市立小・中学校図書館への納品は、千葉市書店協同組合が委託され、組合の方から担当学校が決まっているのだが、5月の展示会を皮切りに作業がはじまる。どうしても集中するので、7月の夏休み前までは大忙しになる。それと、今年から千葉市立小・中学校は2学期制がはじまったので課題図書の納品がとても早くなった。

その課題図書=全国読書感想文コンクールのための課題図書の1册を見た時、驚き、はらがたった。課題図書についてはいろいろなことが言われていて、質問を受けたり、意見を聞かれることが多い。私は教育の中での読書教育を否定するつもりはない。そして、読書感想文=文を書くことを学ぶことも否定するつもりはない。けれど、全国の学校で一斉に指定された本を中心におこなわれることには疑問をもっていた。

読書はなんといっても個人的な営みなので集団教育をとるかぎりその間に矛盾がおきる。それを教師がどうやって指導するのか私にはそこがどうしても見えてこない。このことは課題図書の問題に限らず、いま、学校で流行っている朝読書にもいえて、課題図書で大量 の本嫌いの子どもを生んだように、またまた、朝読書で本嫌いの子どもを生むのではないかと懸念している。親のボランティアの熱心な参加もおおく、「本を読むのは良い子、嫌いな子は悪い子」のような風潮も気がかりだ。

子どもの本の世界はおとなの世界と違って、本を書くのもおとな、造るのもおとな、売るのも、手渡すのも全部おとな、けれど、最後の読むという行為だけは子ども、つまり読書教育、子どもに本を手渡すおとなは本のことだけを知っているだけでなく、読み手である子どものことも知らなければならないとおもう。今年の小学校1・2年生用に指定された課題図書を見て私は愕然とした。

具体的に言おう。せんせいが宿題をだしている。宿題は「だっこ」(すでにここから?宿題をだされるのは子どもたち、「だっこしてもらいましょう……か?本ではただ「だっこ」)家に帰ってもお母さんは忙しくて「だっこ」してもらえない。けれど、夕食の時今日の宿題を聞いた家族=この家はおとうさん、おかあさん、あかちゃん、そして、おばあちゃんの5人、みんなに「だっこ」してもらって満足にねむる。ところが、次ぎのページ(最後の2ページ)やぎの先生は教室でみんなに聞いている。“みなさん、しゅくだいをしてきましたか?”そして、最後のページ、みんなにこにこ顔で元気に“ハーイ!”この絵本は読み聞かせように読書教育用に造られたわけではないから個人的に親が子どもに読んでやる、そして、“だっこ!”本としてそれはそれで良いでしょう。(ただ、わたしに幼い子どもがいても読んではやらないと思うけれど、それは私個人の好みの問題だ)

いま、子どもたちのおかれている家庭の状況はほんとに複雑だという。教師はどんなに悩んでいるか、いろいろな子どもがいるということの現実、毎日のように新聞やニュースで流れてくる虐待の話、生まれる子どもは親を選べない、生きる環境を選ぶことができない。そんな子どもがどんな思いで生きているか、この本を課題図書に推薦したおとな、これで読書教育をしようとする教師たちはこの子どもたちの状況をどう考えて、どう教育しようとするのだろうか?読書教育は暴力になりうるということもおとなは真摯に考えるべきだと思う。