■会留府のこと〜2001年12月〜
えるふ通信2001.11号を見た子どもが“お母さん会留府の名前が変わるよ”と言ったそうです。子どもは良く見ています。子どもがえるふ通
信を読んでいてくれて嬉しくなりました。
2001.12.1は会留府の誕生日でしたが、(同じ日には出来なかったのですが)2001.11.20正式な名前は「有限会社 こどもの本の広場 会留府」になりました。
両親のこともありここ近年はともかくただ走りっぱなし、あらためて立ち止まってみたら流通
の状況は非常に悪くなっていて、先輩格の子どもの本の専門店は次々と閉店、お客様も多様になって子どもの本一筋とはいかなくなってきました。こんな時は出発点に立ち戻ってみるにかぎる、何が変わって何が変わらないのか考えてみようと思いました。
前にも書いたことがありますが、私達は本屋をやりたくて(その頃脱サラと言う言葉が流行っていました)計画を立てて始めたわけではなく、ひょんなことから本屋をすることにしたのです。丁度その頃千葉市は新住民が増えて、いままでと違った人とのつながりが始まっていました。
人とのつながりはそれまでの地縁、血縁ではなく、子どものことであったり、生協のような共同購入のような結びつきでした。子どもの本のことでいえば、子どもがたくさんいてともかく必要としているので、ある人は文庫を開き、ある人は子供会に、子ども劇場の活動でした。自分達で作り上げていく熱気に溢れていました。
その頃の子ども達がそろそろ親になってきています。いろいろなものが溢れ、与えられて育ってきた子ども達が子育てを担う世代になってきています。24年になる会留府へも子どもの時来てくれて、今は子どもを連れて来てくれるような人が出てくるようになりました。
けれど一方では公共の読書施設のの整備が進まず、学校図書館はすっかり立ち遅れ、やっと少し見直されてくるようになりました。行政の意識?が切りかわらないうちに不況になり、また文化のようにすぐお金にかえられないものは切り捨てられようとしています。
経済格差が拡がり、なるべく楽をして生活することが良しとされ、自分達の手で作り上げていく力、他人と手を繋いで関係を作り上げていく力が弱くなってしまいました。
ここで会留府を閉じてしまうのはもったいない、次の世代に橋渡しが出来るよう、もう少しやってみようというのが結論でした。何人かの人達が力を貸してくださいました。実質的な運営は全体を阿部裕子が、公共図書館や公民館は石倉雅子が、講演会や各種イベントの運営は宮田敬子が、宣伝やえるふの会のことは後藤昌代が、学校図書館のことは阿部邦雄が責任を持ち会留府を動かしていくことになりました。影の仕事(経理など)は村上利子がサポートします。HPは今までどおり阿部裕子と吉田麻衣のコンビで続けていきます。
子どもの本の広場となった会留府、広場ではいろいろなことが出来ます。広場では話すのも唱うのも踊るのも自由です。仲間と集うのも一人で立ち止まっているのも自由です。広場を横切って次の場に出かけていくのももちろん可能です。
あえて、こどもの本の広場と名づけることで、人と人、本と人を結ぶ場になれたらと願っています。
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